計算機・コンピュータ
計算機やコンピュータなど情報処理分野の技術は私たちの生活を支え、人間の活動により大きな影響を与えつつあります。このページではその情報処理技術の歴史的展開について、国立科学博物館が所蔵する計算機とコンピュータの資料を中心に解説を行いました。そのため国内の事項を中心に解説しています。
なお本ページは、資料調査及び整理に当たり「科学研究費補助金:基盤研究(B)『Web併用体験型情報遺産展示を伴った未来志向教科架橋型情報教育体系の構築』に関する調査」(23H00972)の支援を受けました。
| はじめに | 1. 計算する機械の登場 |
| 2. アナログ計算機 | 3. 統計機械の登場 |
| 4. コンピュータ登場と国産コンピュータの開発 | 5. コンピュータの発達を促した素子の変遷 |
| 6. だれでもコンピュータを手に | 7. 次の一歩へ |
| 8. スーパーコンピュータの登場 | 9. 世界を変えるAI |
【 はじめに 】
コンピュータの歴史を考えるとき、コンピュータの定義を考えなければいけません。コンピュータは開発当初、日本では「計数型自動電子計算機」と呼ばれていました。計数型とは「デジタル」のことで、自動とはプログラムを内蔵し、「電子」とは真空管や半導体で構成されていて、歯車などを使う機械式や継電器(リレー)を使う電気式とは区別されていました。そこで、ここでは従来のコンピュータ史同様に、計算機と統計機械の発達に始まり、近年急速に発展しているAIに少し触れることにいたしました。そのため、江戸時代以前のそろばんや算板については、このページでは触れていません。
近年ではコンピュータの前史として、2000年以上前に作られたギリシャの機械「Antikythera」や14、15世紀の西洋の天文時計などが指摘されています。わが国でも、飛鳥時代に漏刻と呼ばれる時の経過を示す装置があったことが日本書紀に記されていますが、その後わが国に機械式時計の時代がやってくるのは戦国時代です。宣教師によって機械式の時計が持ち込まれ、長崎のセミナリヨではその制作技術も伝えられていたことが知られます。※ その後西洋式の時計は、日本の不定時法に適用するよう改造され和時計となり、江戸時代には各地に時計師が登場するまでになりました。
また18世紀になると、時計機構を利用して人形などに複雑な動きをさせるオートマタが西洋で盛んに作られるようになりました。日本でも江戸時代には、時計機構を応用したと思われるさまざまな「からくり」が考案されています。「茶運び」と呼ばれる人形は、カム機構によって停止や進行方向の転換を自動的に行うことができました。万年自鳴鐘(通称:万年時計)は幕末から明治初期にかけて技術者として幅広く活躍した田中久重(1799~1881)が、1851年に完成した大型の複雑機械時計です。不定時法時刻を示す割り駒式自動文字盤、太陽と月の出没を示す天象儀などを備えていました。久重は他にも、複雑な動作をするからくり人形「弓曳童子」や「文字書き人形」、仏教における須弥山説を元に佐田介石の依頼で作られた視実等象儀など、機構を利用した様々な装置を製作しています。これらもコンピュータへの道程の一つと言えるかもしれません。
※佐々木勝浩他、『時間の日本史』、小学館、2021年、p54.
【 計算する機械の登場 】
コンピュータのルーツの一つは計算機です。その歴史は古く、バビロニアの粘土板に示される掛け算の表やギリシャの計算台に、人類の計算に対する努力の跡を見る事ができます。歯車などを用いた本格的な計算機械が登場するのは17世紀です。フランスの数学者ブレーズ・パスカル(B. Pascal)が考案した計算機(パスカリーヌ)は現存しており、その構造を知ることができます。微積分学の分野でも名高いライプニッツ(G. W. Leibniz)が1694年に考案した計算機械は四則演算も可能で、円筒式段差歯車やキャリッジがスライドする方法はその後数百年にわたって使われました。その後19世紀後半になると、次々と実用的な計算機が登場します。オドナーの計算機やオットー・スタイガーのミリオネアは広く使われました。これらの機械はわが国にも入っていたようです。
江戸時代の伊能忠敬が制作した「量程車」は歯車を使った加算器です。明治時代になると、さっそく計算器を作ろうとした人々がいたことが知られています。※ 1893(明治26)年には、すでに機械式計算機の特許2063号「計算器」が認可されています。実際に制作され現存するものとしては、矢頭良一が1902年に開発した自動算盤「パテント・ヤズ・アリスモメートル」が最も古く、その後、丸善や日本計算機など数社が手回し計算機を発売しています。1923年から製造が開始されたタイガー計算器は、手回し計算機の代名詞となるほど、多くの職場で使われるようになりました。置数歯車や係数歯車からなる基本的な構造は、ライプニッツの計算機と変わりません。これらの器械は、1960年代後半に電子式の卓上計算機が登場するまで、銀行や科学計算など社会の様々なシーンで多用されました。
※内山昭『計算機歴史物語』、岩波新書、1983年.
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パスカリーヌ |
ライプニッツの計算機 |
タイガー計算器 No.59 |
タイガー計算器 |
【 アナログ計算機 】
現代のコンピュータのようにデジタルで信号を処理する装置とは異なりますが、コンピュータのルーツの一つにアナログ計算機と呼ばれる装置があります。アナログとは連続する量のことで、紐の長さや歯車の角度、電圧などを使って計算を行います。
物差し状の細長い板に複数の目盛りを刻み、板同士をスライドさせることで計算する計算尺は、乗除算や関数の計算を簡単に行うことができます。17世紀前半に英国のエドマンド・ガンター (Edmund Gunter、1581-1626) やウィリアム・オートレッド (William Oughtred、1574-1660)らによってその基本的な形が考案され、1850年にはフランスのアメデー・マネーム (Amédée Mannheim、1831-1906) によって、マンハイム計算尺と呼ばれる現代の形になりました。日本には、1894年頃廣田理太郎らによって紹介されました。その後、逸見治郎によって国産化された竹製の計算尺は、国外でも広く使われるようになりました。
英国のケルビン卿(ウィリアム・トムスン:1824~1907)が考案した潮位を計算する機械は、歯車を用いて波形を合成し、潮位の計算を行うことができました。周期的な現象は一見それがどんなに複雑に見えても、基本となる単純な波(単振動)とそれの2倍や3倍の高い周波数の波(高調波)を足し合わせることで表すことができるからです。
紐の長さを使っても計算を行えます。1936年に米国MITのジョン・ウィルバー(John B. Wilbur)が考案した九元連立方程式求解機は、滑車にかけたベルトの長さを使って、九元までの一次連立方程式を解く事ができました。わが国でも1944年頃に東京帝国大学航空研究所で制作された実機が現存しています。
東京理科大学には、微分解析機が保存されています。微分解析機は、積分器と呼ばれる機構やシャフト、歯車などを用いて微分方程式を解くための、大型の機械式アナログ計算機です。米国MITのヴァネヴァー・ブッシュ(Vannevar Bush)が大型実用機を1930年頃に製作しています。※
真空管が発明されると、連続する電圧波形を使って演算する計算機も考案されました。強震応答解析用アナログ計算機SERACは地震に対する建造物の応答を解析する計算機です。1961(昭和36)年に東京大学と株式会社日立製作所によって製作され、霞が関ビルの基礎研究に活用されました。アナログ計算機は、波形を直接扱えるため、デジタル計算機が使用されるようになった1970年代になっても、電気回路の応答解析などに使用されていました。
※:ハーマン・H・ゴールドスタイン/末包良太・米口肇・犬伏茂之訳、『計算機の歴史―パスカルからノイマンまで―』、共立出版、1979、p95-118.
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プラニーメーター |
ヘンミ計算尺 |
家庭電化計算用の計算尺 |
円盤式計算尺 |
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九元連立方程式求解機 |
ケルビン潮候推算機 |
強震応答解析用アナログ計算機SERAC |
【 統計機械の登場 】
現在のコンピュータのもう一つのルーツはデータを記録し分類する機械です。社会が発展し、役所や企業などが扱うデータが増えると、人手でそれを捌くことが困難になりました。そのため紙製カードを使用し、そのカードの数字や文字に対応する位置に孔をあけ、会計や統計の計算、カードの分類など行うパンチカードシステム(PCS)が考案されました。
パンチカードそのものは、すでにフランスのジョセフ・マリー・ジャカードが織物に複雑な模様を編みこむ装置の入力用として使用しています。米国ではハーマン・ホレリス(1860~1929)が1884(明治17)年頃にパンチカードを利用して統計を集計できる統計機械を考案しました。※1
わが国でも1902(明治35)年に「国勢調査ニ関スル法律」が公布されたことにより、明治政府は調査結果の効率的な集計のためには統計機械が必要と考えた為、そのための機械を国内で開発することとなり、逓信省電信燈臺用品製造所の技師川口市太郎が、「明治37年人口動態統計調査」の一部集計用として、翌年試作機を完成させます。その後それを改良した逓信省式電気集計が開発されましたが、1923年に起きた関東大震災により、ほとんどを消失してしまいました。※2
そのころになると、日本でも統計機械を実務で使用するところが現れ始め、戦後になると銀行や大きな会社などに導入されるようになりました。IBM社の407会計機(Accounting machine)は、そのような業務で使用されるPCSの中心となる機械です。IBM社はホレリスが作った会社の後身です。
戦後の1950年代後半(昭和30年代)になって、IBM695や605、UNIVAC60や120などのPCS(Punch Card System)が官公庁や証券取引所など、色々な産業分野に導入されだしました。PCSとは穿孔機、検孔機、分類機、会計機・製表機、照合機、翻訳機、集団穿孔機、計算穿孔機等個別の機械で構成された計算・統計システムです。プログラムボードを使用していて現在のような本格的なプログラム内蔵式ではありませんでしたが、現代のコンピュータのルーツの一つです。UNIVAC120は1962年頃までに日本国内で70台以上が稼働するなど、1960年代には官公庁を始め、あらゆる産業分野で盛んに使われ、現在のコンピュータ利用の基礎的な役割を果たしました。
※1:ハーマン・H・ゴールドスタイン 前掲書(4)、p73-80.
※2:川崎茂、「コンピュータの半世紀-国勢調査を支える情報技術」、統計Today、No.27、平成22年(https://www.stat.go.jp/info/today/027.html、参照2025-9-10)
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ホレリスの統計機械 |
IBM 001 |
IBM 024 |
IBM 83 |
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IBM 407 |
UNIVAC120 |
IBM 1401 |
IBM 1403 |
【 コンピュータ登場と国産コンピュータの開発※1 】
コンピュータとはプログラムを内蔵し、デジタルで自動的に演算を行う真空管や半導体を用いた計算機のことです。日本ではかつて計数型自動式電子計算機と呼んでいました。英国のチャールズ・バベッジ(Charles Babbage)は、自然科学でよく使われる多項式の計算に使われる階差表を作るために階差計算を行う計算器械、階差機関(Difference Engine)を考案し、1822年に主動作装置の一部を製作させました。さらにそれを完成させることなく、1834年には新たに今日のコンピュータと同様の構造を持った装置を考案しました。この機械は解析機関(Analytical Engine)と呼ばれ、与えられた演算命令に従って自動的に計算を行う機械でした。しかし本機も完成しませんでした。
百年ほど時は過ぎ、1940年前後には各国で自動計算機の開発がすすめられました。1940(昭和15)年にベル研究所でジョージ・ステビッツらは、9,000個を越す電話用リレーを使用した計算機を開発しました。同じ頃、ハーバード大のハワード・エイケンもIBM社と協力して歯車とリレーを用いた自動計数型計算機の設計、製作に取りかかっています。後にMARK Ⅰと呼ばれたこの計算機の命令は、紙テープ、カードあるいはスイッチによる入力でした。
ドイツでもコンラート・ツーゼ(Konrad Zuse)が2,600個のリレーを使用してプログラム可能な自動計算機、Zuse Z3を1941年に制作しています。
第二次大戦前の1939(昭和14)年から開発を開始し、1942年頃完成したとされるアタナソフ(J. V. Atanasoff)とベリー(C. E. Berry)のABC(Atanasoff and Berry Computer)やドイツの暗号を解読するため秘密裏に1943(昭和18)年に英国で開発されたチューリング(Alan Turing)らの暗号解読機Colossusが世界初の真空管式コンピュータと言われています。
一方でペンシルベニア大学電気工学科のJ・エッカート(J. Presper Eckert、 Jr)とモークリー(John W. Mauchly)が1943(昭和18)年に開発を始めたエニアック(Electronic Numerical Integrator and Computer:電子式数値積分コンピュータ)が世界初の汎用電子式デジタル・コンピュータとして有名となりました。この計算機は真空管を18,800本使用し、10進法による計算を行いました。1946年2月に一応完成し、弾道表の計算以外に天気予報、原子エネルギー計算、宇宙船研究などにも活用されています。エニアックをプログラムするためには、配線の組み替えを含む複雑な作業が必要でした。その煩雑さに、モークリーやエッカートらは記憶容量を拡大し、データとプログラミングを格納する「プログラム格納型のシングル・アドレス・マシン」を着想したと言われています。このアイデアをジョン・フォン・ノイマンが後に発表しています。英国ではチューリングが同様のアイデアのACE(Automatic Computing Engine)を提案しています。
プログラム内蔵方式で最初に完成したのは、1948(昭和23)年にマンチェスター大のウィリアムス(F. C. Williams)とキルバーン(T. Kilburn)らによるManchester Babyで、続いて1949年の英国ケンブリッジ大学のウィルクス(M. V. Wilkes)のEDSAC(Electronic Delay Storage Automatic Calculator)でした。このプログラム内蔵方式の考え方は現代のコンピューターにも受け継がれています。
戦前の日本でも中嶋章や大橋幹一、後藤以紀らによるスイッチング理論(論理数学)の先駆的研究がありました。それらの論理数学を継電器回路理論へ応用した成果の実証として電気試験所で1952年に試作されたのが、ETL Mark Ⅰです。これは継電器(リレー)を用いた計算機ですが、わが国最初のコンピュータとも言われています。※2
各研究機関が開発に取り組む中、真空管を使用した計数型(デジタル)の計算機として、国内で初めて完成したのがFUJICです。FUJICは富士写真フイルム株式会社の岡崎文次らによって、レンズの設計計算のために7年の歳月をかけ、1956(昭和31)年に完成しました。
このようにコンピュータが社会の一部に登場したとはいえ、多くの人々にとっては、今だ遠い存在でした。コンピュータを電話線とつなぎ、リアルタイムでコンピュータを操作するオンライン・リアルタイムシステムの登場は、一般の人々にとって、コンピュータの便利さを実感できた最初かもしれません。オンライン・リアルタイムシステムを利用した国鉄座席予約システムの第一歩は1960(昭和35)年に営業を開始したMARS-1です。これは東京-大阪間の特急4列車を対象としたものでしたが、予想以上に信頼性があったため、全国の多数の列車を対象として、座席指定券の印刷から審査・統計まで含めた予約関連業務全般にわたるコンピュータ化が行われました。それが1964(昭和39)年より運用を開始した座席予約システムMARS-101で、全国の主要駅から直接電話回線でコンピュータを操作し、182列車、13万座席を全国467箇所の端末から予約できました。
※1:大駒誠一、『コンピュータ開発史』、共立出版、2005、p51-168.
※2:駒宮安男、「リレー式計算機ETL Mark Ⅰ、Mark Ⅱ」、情報処理、Vol. 17、No. 6、1976、p513.
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ディファレンスエンジン |
ETL Mark Ⅱ |
FACOM-426B |
パラメトロン計算機 |
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真空管式電子計算機 FUJIC |
ETL Mark Ⅳ用 |
機械式翻訳機「やまと」の基板 |
ETL Mark Ⅳ A |
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ETL Mark Ⅳ B用 |
ETL Mark Ⅵ用 |
座席予約システム |
HITAC5020 試作1号機 |
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MELCOM 1101 |
【 コンピュータの発達を促した素子の変遷 】
コンピュータ開発の当初、回路素子としてリレー(継電器)が選ばれました。リレーは電磁石を用いて接点を動かし、電気をON/OFFする部品です。論理数学を電気回路に置き換えるのに都合がよく、当時すでに電話交換機等に使用されていたことから信頼性もありました。電気試験所(現:産業技術総合研究所)で開発されたETL Mark Ⅱもリレーを使用しています。Mark Ⅱは、わが国最初のコンピュータとも言われているETL Mark Ⅰの後継機です。
しかしリレーは、電磁石で物理的に接点を動かす構造から、電力消費が大きく、反応速度も遅い。そこで電気信号を自在に扱える真空管やダイオード、トランジスタが発明されると、まだ試作品に近いものでしたが、積極的にコンピュータの論理素子として採用されました。トランジスタを使用した国産の一号機は電気試験所(現産業技術総合研究所)がFUJICにわずか遅れて同年の1956年に完成したETL Mark Ⅲです。これはトランジスタを用いた計算機の稼働としては、世界的にも早い時期になります。その経験から1957(昭和32)年に製作されたETL Mark Ⅳは完成度が高く、国産電子計算機への道を開きました。
わが国ではちょうどその頃、後藤英一によってパラメトンが発明されたことにより、国内では同素子を用いたコンピュータが開発されました。パラメトロンはフェライトコアに銅線を巻いた物で、1954(昭和29)年に後藤英一が発明し、コンピュータに応用されました。真空管や当時のトランジスタに比べて安価で安定していたのです。1961(昭和36)年に完成したPC-2は、富士通からFACOM202の名称で製造され、東京大学物性研究所などで実用されました。しかし消費電力が大きく、早いクロックで動作させる事ができないことから使われなくなりましたが、パラメトロン計算機の開発に多くの研究者が取り組み後の人材が育ったのです。※
一方、論理素子とは異なり、デジタル信号を記憶するメモリは、コンピュータの開発で初めて必要となった新しい機能です。当初それらの目的で考案されたのは、ブラウン管を利用したメモリーチューブや超音波を利用した遅延線でした。日本で最初に稼働した真空管式電子計算機FUJICは水銀遅延線記憶装置を使用していましたし、ETL Mark Ⅲは超音波遅延記憶装置が使われました。いずれも入力信号に対する出力信号の時間差を利用して、ループをかけ信号を維持するという仕組みです。
コンピュータの開発において、高速で動作する素子と並行して、大規模に高速で動作するメモリの開発は必須でした。ETL Mark Ⅳの開発では、1958年頃に電気試験所(現:産業技術総合研究所)とTDKがコアメモリの国産化に成功しています。ドーナツ状の小さな磁性体に通した電線に電流を流して磁性体を磁化することで、デジタル信号を記憶させることができるのです。コアメモリは1960年代のコンピュータにとって主要な記憶素子で、当時は米国製のコンピュータにも日本製が多く採用されていました。製造にあたって繊維機械に慣れた女性の工員の技量の高さが大きかったといわれています。
1950年代にはまだ信頼性も低かった半導体は、それでも多くの分野で採用され、大量生産され、価格は落ち、信頼性も向上し、コンピュータの主要素子となりました。1964年に日立製作所が開発した、国内初の大型コンピュータとも言われるHITAC5020の内部配線の様子を見ると、非常に複雑な配線であることがわかります。この状況から、ダイオードやトランジスタを個別に配線するディスクリート構造では、これ以上大型化させることが困難であることは容易に想像できます。コンピュータのさらなる発展には、回路を一つの半導体ウェハ上に構成するICやそれを大規模化したLSIの登場が必要でした。
※:情報処理学会歴史特別委員会編、『日本のコンピュータの歴史』、オーム社、1985、p113-122.
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ETL Mark Ⅱ用 |
ETL Mark Ⅲ用 |
ETL Mark Ⅳ用 |
ETL Mark Ⅳ A用 |
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ETL Mark Ⅳ B |
ETL Mark Ⅵ用 |
磁気コアメモリ |
パラメトロン素子 |
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FUJICの水銀遅延線記憶装置 |
【 だれでもコンピュータを手に 】
電子式卓上計算機(電卓)とマイクロコンピュータの登場
大型計算機が実用化されても、個人で使うことは夢でした。しかし電子デバイスは急速に小型、集積化していきました。手回し計算機が全盛の時代にリレーを使った計算機や真空管式の計算機が登場します。1964(昭和39)年に早川電機工業(現在のシャープ株式会社)が発売したオールトランジスタ式電子卓上計算機CS10-Aは、国内外に大きな衝撃を与えました。演算素子はトランジスタからLSIへとさらに急速に集積化して行きます。それと同時に日本の国内ではし烈な電卓開発競争が始まっていました。その対応としてビジコン社はLSIの開発が必須と考え、intel社と新しいLSIの開発に取りかかりました。こうして生み出されたのが民生用としては世界初の商用マイクロプロセッサ、intel 4004です。
i4004はWindows系パソコンの心臓部であるインテル系CPUの元祖で、4bit(ビット)のマイクロプロセッサです。電卓用のLSIを求めていたビジコン社の要請によって、インテル社のTed Hoffや日本から派遣されていた島正利らが協働で開発しました。※1
その後インテル社は、8008、8080と8bitのマイクロプロセッサを開発し、それらを使用した多くのパーソナルコンピュータ(PC)が各社から誕生しました。8080や8080Aの開発にも島は大きくかかわっています。その頃から10万円前後で購入できるコンピュータの組み立てキットが発売され、多くの若者たちの人気を集めました。※2
初期のマイクロコンピュータやパーソナルコンピュータは、テンキーやキーボード入力でした。Xerox社のパロアルト研究所が1973年に開発したコンピュータAltoは、ワークステーションの原型といわれています。本機種はスティーブ・ジョブズらに強い印象を与え、グラフィカル・ユーザ・インタフェース(GUI:Graphical User Interface)とマウスは、アップル社のコンピュータを初めとして、PCのスタンダードとなりました。※3
現代では、コンピュータやスマートフォンをネットに繋いで様々な情報のやり取りをすることができます。電話線でコンピュータをつなぐことは、オンラインによる座席システムなど、すでに特定のシステム間で使われていました。しかし、交換機を通す方法とは別に、任意の相手と、また多数の相手と、機種を超えて自由に情報をやり取りするためには、コンピュータやネットワーク機器が互いに情報を正しくやり取りするための定められた約束事や、手順の開発と標準化が必要でした。最初は研究者間で簡単に情報を共有するために考案されたシステムは、拡張し、標準化されて、だれでも自由に接続して情報を交換できるインターネットへと成長しました。
※1:嶋正利、『マイクロコンピュータの誕生』、岩波書店、1987、p21-132.
※2:大駒誠一 前掲書(7)、p209-218.
※3:長谷川裕行、『ソフトウェアの20世紀』、翔泳社、2000、p173-192.
【 次の一歩へ 】
1980年代になると、非ノイマン型と言われる、逐次命令を実行する方式とは異なるアーキテクチャのコンピュータの研究開発が盛んになりました。特に、データ駆動式(データフロー型)と言われる、命令がデータによって指示される方式が盛んに研究されました。日本の国内においても、ICOT(Institute for New Generation Computer Technology:新世代コンピュータ技術開発機構)によるプロジェクトや、大学などで各種のコンピュータが開発されました。
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QA-1 |
QCDPAX |
並列推論エンジンPIE |
SIGMA-1 |
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EM-4 |
並列推論マシン PIM/p |
逐次型推論コンピュータ試作機 multi PSI |
【 スーパーコンピュータの登場 】
1950年代から米国では、計算を高速で行える計算機の開発が進んでいました。1960年代に入ると、通称スーパーコンピュータと呼ばれる浮動小数点演算の処理能力が高い科学計算用の大規模で高速な計算機が開発されるようになり、1976年に発売されたCRI社のCray-1は、その性能と高価なことで有名となりました。1980年代には日本国内各社の計算機の性能も上がり、日米貿易摩擦が起きるほどになりました。これらの計算機は、流体のシミュレーション、気象予測、大気・海洋シミュレーション、電気工学分野での電磁界解析、材料化学分野での分子動力学やその他、交通流解析などに活用され、科学や技術の発展に大きく寄与するようになりました。※1
1996年には筑波大学のCP-PACSが、2002-2004年にはNECの開発した地球シミュレータ(初代)が、コンピュータの性能を比較するTOP500で世界1位を取るまでになりました。地球シミュレータや「京」など、スーパーコンピュータの登場によって、それまでは不可能であった地球規模の環境変動解析などができるようになりました。※2
※1:川合敏雄『スーパーコンピュータの挑戦』、岩波書店、1985、p17-44.
※2:海洋研究開発機構、『地球シミュレータ開発史』、海洋研究開発機構、2010、p32-37.
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CP-PACS |
地球シミュレータ |
スーパーコンピュータ「京」のCPUボード |
【 世界を変えるAI 】
近年の急速なAIの発展のきっかけはコンピュータの処理能力の大幅な向上と、ネットを通して利用可能な膨大な情報と言われていますが、その原動力は人間の脳を探求し、その機能の一部を数式やモデルを使って表し、そのメカニズムを工学的に応用しようとしてきた多くの研究です。2024年度のノーベル物理学賞の説明資料「For foundational discoveries and inventions that enable machine learning with artificial neural networks」※1でも甘利俊一、中野馨、門脇正史、西森秀稔、福島邦彦らの名前が挙がっていましたが、この分野での日本人の貢献には大きなものがあります。
1950年代、コンピュータがまだ自動計算機と呼ばれていた頃、人間が行う論理的な思考を、ルールや記号の組み合わせとして記述しようとする研究や、脳の神経細胞である「ニューロン」を単純化したモデルを作り、それらをネットワーク状に繋げて学習させる研究が盛んとなりました。この時期にはフランク・ローゼンブラットによる「パーセプトロン」などが1957年に提案されるなど、研究が盛んとなりました。しかし、理論的な限界や、当時のコンピュータの能力の低さから欧米では研究資金が打ち切られるなどして、1960年代後半から研究は低調となりました。※2※3
一方日本では、1967年に甘利俊一が「確率的勾配降下法」を考案するなど、関心のある研究者が継続して研究を進めていました。確率的勾配降下法 (Stochastic Gradient Descent、 SGD)は、現在の深層学習の学習法の基礎となっているアイデアで、1986年にデビッド・ラメルハート、ジェフリー・ヒントン、ロナルド・J・ウィリアムスによって再発見され、誤差逆伝播法として発表されました。
またこの頃日本では、文字認識(OCR:文字読み取り装置)の分野で、独自の実用的なアイデアが、社会に実装されています。郵政省と東芝は、1967年に手書文字読取試作機TR-2を試作しました。その実用機であるTR-4は1968年に導入され、手書きの郵便番号を読み取り、1分間に約370通の仕分けができました。一方日本語の文章の読取では、飯島泰三による複合類似度法を応用したASPET /71が1971年に東芝によって制作されています。
また現在のAI研究の基礎となる研究でも、この時期、福島邦彦によって1980年に「ネオコグニトロン」が提案されています。これは脳の仕組みを模したモデルで、手書き文字などを高い確率で認識できる方法で、現在の画像認識で絶大な力を発揮する「畳み込みニューラルネットワーク(CNN)」に先行するアイデアです。※4
1980年代になると、コンピュータの性能が飛躍的に向上したことなどにより、専門知識を集積したエキスパートシステムやルールベースの自然言語処理が注目され、再びAI研究ブームが到来しました。しかし人手による膨大なデータの入力や、言葉の非論理性などから、エキスパートシステムが一部実際に事業化された他、大きく研究は進展しませんでした。日本では、その壁を突破すべく、1982年~1992年にかけて、第五世代コンピュータプロジェクトを推進しましたが、多くの野心的な目標は達成できませんでした。
その後、コンピュータの計算能力も飛躍的に上がり、機械学習の実用化やインターネットの普及によってネット空間の膨大なデータを手軽に利用できるようになったことなどにより、深層学習(ディープラーニング)が実用化して、計算能力、論理的推論、パターン認識などにおいて、人の能力を超えるまでになりました。囲碁の対戦でAlphaGoが人に勝利したことは、大きな話題となり、人工知能の急速な進化を世に知らしめました。近年のAIの発達には驚くべきものがあります。急速に発展しつつある分野の歴史を述べるのは難しく、AIの発達はコンピュータ史の見直しを迫るかもしれません。
※1: https://www.nobelprize.org/prizes/physics/2024/advanced-information/(参照2025-9-10)
※2: 山田誠二、「1-1人工知能の歴史」、『知識の森』、電磁情報通信学会、S3群-3編-1章、2012.(https://www.ieice-hbkb.org/files/ad_base/view_pdf.html?p=/files/S3/S3gun_03hen_01.pdf#page=2)(参照2025-10-10)
※3:甘利俊一、「1-1ニューラルネットワークモデルの過去と現在」、『知識の森』、電磁情報通信学会、S3群-4編-1章、2012.(https://www.ieice-hbkb.org/files/ad_base/view_pdf.html?p=/files/S3/S3gun_04hen_01.pdf#page=2(参照2025-10-10)
※4:福島邦彦、「視覚パターン認識とネオコグニトロン」、vision、Vol. 29、No. 1、2017、p1-5.
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ASPET/71 |































































