「東日本大震災被災標本レスキュー活動」-藻類標本の救出
東日本大震災被災標本レスキュー活動-藻類標本の救出

平成23年3月11日午後2時46分に、宮城県沖で発生した東北地方太平洋沖地震(観測史上最大のM9.0)は、その直後に大津波を引き起こし、太平洋沿岸の市町村を中心に甚大な被害をもたらしました。
東北地方の太平洋沿岸域にあって、このたびの地震、津波等の影響を受けた博物館、科学館、水族館等施設は多数に及び、建物がほぼ壊滅し、職員全員が亡くなられた施設もあります。多くの貴重な標本が、海水や泥をかぶった状態になりました。
現在、被災の現地において復旧・復興に向けての作業が進められる中、被災した博物館等の施設から標本を救い出し復元する「標本レスキュー」が始まり、日本中の様々な博物館から職員が現地にむかい作業に当たっています。国立科学博物館の職員も、被害にあった様々な分野の標本についてレスキュー活動の協力を行っています。
NEWS展示「東日本大震災被災標本レスキュー活動」で紹介中の内容をより詳しく紹介いたします。今回のホットニュースでは、中でも藻類の標本レスキューについて、植物研究部の北山太樹研究主幹が担当した活動について紹介します。現地でのレスキュー活動や、標本を受け入れてからの洗浄・修復の作業など、当館が行っている標本レスキューについて詳細を報告します。
海藻標本を保有していた被災館
太平洋沿岸の東北4県(青森、岩手、宮城、福島)にまたがる広域かつ大規模災害であるために現在もなお情報が充分とはいえませんが、当事者や関係者の方々の熱意と尽力により、震災当時に海藻標本を収蔵していた博物館や科学館の被災状況が少しずつ明らかになっています。
これまでに判明したところでは、岩手県の山田町立鯨と海の科学館(岩手県下閉伊郡山田町船越7-50-1)、陸前高田市立博物館(岩手県陸前高田市高田町字砂畑61-1)が海藻標本を保有し、甚大な被害を受けました。いずれの館も岩手県内であることから、震災直後から岩手県内の博物館施設の被災状況の調査に着手していた岩手県立博物館が、両市町自治体の教育委員会からの救援要請を受け、標本資料の救出支援を行っています。
海藻標本は顕花植物などとともに植物標本に含めて扱われるため、同館で植物を担当されている専門学芸員、鈴木まほろ氏が窓口となり、現地捜索から修復依頼まで獅子奮迅の作業が行われました。陸前高田市博物館の被災植物標本については、全国29機関に修復作業の分担が依頼され、各地で計約7000点が修復されました。岩手県立博物館から各機関へ標本が発送される過程で、海藻標本が約300点含まれていることが判明したため、残っていた約180点が国立科学博物館に送られ、その修復作業を担当することになりました。
また、山田町立鯨と海の科学館の海藻標本については、救援要請が出される以前から現地スタッフの手によって修復作業が進められていましたが、県内に海藻の専門家がいないことから、現地での標本の修復方法についての指導要請が岩手県立博物館を通して国立科学博物館へ出されました。依頼を受け、当館植物研究部北山太樹研究主幹が5月24日と6月29日に山田町入りし、現地視察、標本の発掘、標本修復作業等の指導、標本修復・整理に必要な物資の支援を行っています。
岩手県以外の被災した博物館にも海藻標本が残っている可能性があり、いまも情報を収集中です。
海藻標本とは?
海藻は、アオノリ、テングサ、ワカメなどのような食用藻も含まれる、海中に生育する大型の藻類です。陸上植物と同様、基物に定着して光合成を行って生活する生き物ですが、系統分類学上は、緑藻(アオサ藻)、紅藻、褐藻など異質な生物グループを含んでいます。「海藻」という呼び方は便宜的な言葉で、自然な分類群を指すものではありません。
海藻の標本には、主に陸上植物(維管束植物)と同じ形態の標本である①押し葉標本と、海産動物で一般的にもちいられる②液浸標本との2種類があります。両者で作製の方法・保存方法がまったく異なるため、救出・修復にあたってもそれぞれに適した方法が必要になります。
①押し葉標本
押し葉標本は、海藻の藻体を台紙に載せ、吸水紙に挟んで重石で圧しをかけながら乾燥させて得られる標本です。ただし、陸上植物と異なり、海藻はもともと海水のなかで生活し体のほとんど(95%以上)が水でできているために、その乾燥には大量の段ボール板と扇風機の使用が不可欠です。とりわけ日本では、湿度が高い季節があるために、古くから圧しをかける前に水道水で洗いながら塩分を除くことが行われています。
今回、津波の被害に遭った押し葉標本は、両館とも1枚1枚、ビニール袋で保護されていたことが幸いし、海水に直接浸かることを免れたものが少なくありませんでしたが、ビニール袋の内部まで海水が侵入してしまった標本では、海藻と台紙に深刻なカビが発生していました。しかし、大部分の標本は、バットのなかで真水に5分程度浸けておくことで塩分を除き、毛筆などで表面のカビや泥を落とすことにより、かなり修復することができました。真水から引き上げたあとは、通常の海藻標本作製と同様に、さらし布、吸水紙(または新聞紙)、段ボール板の順に重ね、最後に重石を載せて圧し、横から扇風機で風を送って乾燥しました。
②液浸標本
海藻の液浸標本には、動物標本で使われるようなマヨネーズ瓶が使われます。固定液はアルコールではなく、ホルマリンを海水で5〜10%に調整した固定液を使用しています。瓶は強靱な蓋で密閉し、ラベルは耐水性の紙で作成し瓶のなかに同封されています。そのため、海水や泥に埋まっても、瓶が破損しない限りは藻体も標本情報も無事である場合が多く、今回被災した山田町立鯨と海の科学館の液浸標本の多くは土砂に埋まりながらも内部の藻体は良好な状態で発掘されています。ただし、割れてしまうとホルマリン液が漏れ出し、救出作業を難航させる原因となりました。
山田町立鯨と海の科学館の被害

山田町は、岩手県中央部に位置する太平洋に面した漁業の町で、古くはイルカ漁(大正時代まで)、戦後は日東捕鯨株式会社が設立された昭和24年から昭和62年まで商業捕鯨が行われていました。山田町立鯨と海の科学館(以下、鯨館)は、山田町に縁の深い「鯨」と「海」をテーマにした科学館として、平成4年に山田湾と船越湾に挟まれた船越地区に建設されました。
鯨館は開館以来、テーマ実現のために鯨と海藻の展示に力を入れ、商業捕鯨末期に捕獲されたマッコウクジラやミンククジラの骨格標本などともに、鯨館のスタッフが長年かけて製作した多種多様な海藻の押し葉標本約500点を収蔵・展示していました。そして、昨年12月には約8万2千点(公称。押し葉標本8万点、液浸標本2千点)の海藻標本が、山田町の海藻を長年採集・研究されてきた吉崎誠博士(東邦大学名誉教授)から山田町へ寄贈されました。
吉崎博士によって半世紀近くかけて収集された、海藻標本としては国内2〜3番目の規模の点数を誇る貴重なコレクションであり、海外の研究者から贈られた外国産海藻の押し葉も含まれていたといいます。このコレクションは、鯨館に隣接した「マリンパーク山田」地区旧食堂(プレハブ施設)内に仮設された海藻標本室に収蔵されました。その輸送作業は昨年末から3回に分けて行われ、すべての搬入を完了したのは今年の3月4日でしたが、それは津波が襲来する1週間前でした。
鯨館の建物は中央の大きな吹き抜けを中心とした3階建てで、津波はその2階相当まで達しました。壁に展示されていた海藻標本の大半と、標本庫に収蔵されていた押し葉標本500点のほとんどが押し流され消失しています。なお、3階天井から吊されていた世界最大級の鯨の実物大模型は難を逃れ、1階天井から吊り下げられていたマッコウクジラとミンククジラの骨格標本は泥をかぶったものの大きな破損はありませんでした。
この建物の1階らせんスロープ下の倉庫には、スチール棚に海藻の液浸標本約2千点が収蔵されていましたが、大量の土砂が押し寄せて棚ごと泥土に埋没しました。「マリンパーク山田」地区の海藻標本室は、プレハブ施設ごと流され壊滅しました。標本庫は瓦礫と化し、7万点近い標本が海に帰したといいます。
鯨と海の科学館の標本レスキュー

山田町立鯨と海の科学館(以下、鯨館)では、標本の救出作業が震災直後から山田町生涯学習課と鯨館のスタッフ、ボランティアの方々によって精力的に行われ、これまでに旧食堂跡地から約1万点の押し葉標本が回収されています。押し葉標本は、1枚1枚がビニール袋に入れられて保管されていたことが幸いし、海水の浸入を受けずに無事だったものが少なくありません。
内部に海水が入ってしまった標本はカビを発生させており、カビ、泥、塩分を除くため、水道水での洗浄とエタノールによる殺菌を施したうえ、扇風機をもちいた迅速な乾燥が行われました。そのためには、大量の段ボール板が不可欠で、国立科学博物館からは400枚の段ボール板を送るなどの支援を行いました。
一方、液浸標本は、鯨館スロープ下倉庫の土砂のなかから約1千点の液浸標本が掘り出され、1本1本洗浄されています。救出作業は現在も継続中で、山田町の方々の、過酷な被災生活のなかでの懸命な復旧作業には筆舌に尽くせない過酷なものがあります。
鯨館1階倉庫で被災した大型のワカメ押し葉標本45点は、鯨館から救出されたのち、東邦大学へ運ばれ、吉崎誠博士(東邦大学名誉教授)によって修復作業が行われました。鯨館が復旧するまでの間、国立科学博物館で保管することになりました。
山田町教育委員会や湊敏館長をはじめとする鯨館のスタッフは、鯨館そのものを山田町復興のシンボルと位置づけ、3年後の再開館を目指しているとのことなので、岩手県立博物館とともに国立科学博物館は今後も支援を行っていきたいと考えています。
陸前高田市立博物館で被災した海藻標本

陸前高田市立博物館の植物標本の被災状況はかなり深刻で、約1万5千点の植物標本の大部分が、泥混じりの海水に浸かり、多くにカビが発生しています。岩手県立博物館が中心になり、全国29機関に修復作業が分担され、各地で、現在までに計約7千点が修復されています。岩手県立博物館での仕分け作業の過程で、約300点が海藻であることが判明したため、途中から約180点の海藻標本を国立科学博物館が引き受けました。
標本は、山田町の標本と同じく1枚1枚がビニール袋で保護されていましたので、ある程度までは無事な標本もみられました。しかし、残念ながら袋の長さが台紙と同じほぼ同じものが多く、そのような標本は海水の浸入をまぬがれずに台紙に激しい損傷を受けていました。ビニール袋が標本よりやや長く、5cmほどの余部をもっていた山田町立鯨と海の科学館の標本とは対照的な結果になりました。
なお、陸上植物の標本の場合、台紙を廃棄することも可能でしたが、海藻の場合は、藻体を台紙から剥がすのが困難なものがほとんどで、やむをえず台紙ごと水洗して修復を行いました。とくに海水による塩分はのちのちカビの原因になりますので、流水中に浸けながら、台紙の両面と縁の泥を毛筆で掃き落として洗浄しました。水洗後は、霧吹きでエタノールをふきかけ、通常の海藻標本の押し葉づくりと同じ方法で乾燥を行いました。
津波の被害を受けた植物標本の大部分は、明治・大正期に東北で活躍した博物学者、鳥羽源蔵(1872-1946)によって採集・製作されたものでした。源蔵は、明治34年(1901)頃から動植物の採集を行い、貝類を中心に膨大な量の標本を残していますが、明治35年(1902年)頃からは岡村金太郎に師事して海藻採集も行っていました(波部 1993)。今回被災した海藻標本のなかには、その当時江ノ島など関東地方で採集した海藻や昭和に入ってから岩手県沿岸で採集したものも含まれています。
大正11年(1922)には、花巻農学校で教諭だった宮沢賢治(1896-1933)が、化石の同定を源藏に依頼して以来、親交が深まり、その後の賢治の作品にも影響を与えたといわれています。賢治の死後発表された『ポラーノの広場』(1934)には、博物局に勤務する主人公レオーノ・キューストがイーハトーヴォ海岸を採集旅行し、「海藻を押し葉に」するくだりがあり、鳥羽源蔵をモデルにした可能性も考えられそうです。当館では、こうした鳥羽源蔵標本の歴史的価値も考慮し、状態によらず一枚残らず修復を試みています。
謝辞
本展示の開催にあたり、次の方々のご協力・ご監修をいただきました。心より感謝いたします。
川向聖子(山田町教育委員会生涯学習課)、 椎屋百代(山田町立鯨と海の科学館)
鈴木雅大(東洋大学理工学部生体医工学科)、 鈴木まほろ(岩手県立博物館)
沼崎真也(山田町立鯨と海の科学館)、 芳賀昭義(山田町立鯨と海の科学館)
舟田春樹(山田町教育委員会生涯学習課)、 湊 敏(山田町立鯨と海の科学館)
吉崎 誠(東邦大学名誉教授)、 和井内三穂子(山田町立鯨と海の科学館)
(敬称略。あいうえお順)
また、標本の修復作業をしてくださった、当館筑波実験植物園ボランティアの皆様にこの場をお借りしてお礼申し上げます。
【参考資料】
鈴木まほろ(私信).報告書:山田町所蔵海藻標本のレスキューについて.
鈴木雅大(2010).海藻展示—山田町立鯨と海の科学館の場合.藻類58:183.
山田町立鯨と海の科学館(2002).山田町立鯨と海の科学館10年のあゆみ.
【引用文献】
波部忠重 1993.貝類研究者列伝(86)鳥羽源蔵.ちりぼたん24:55-56.
執筆:北山太樹(国立科学博物館 植物研究部 研究主幹)