シカン発掘30年 ― インカ黄金文化の源流 (協力:人類研究部 篠田謙一)

シカン発掘30年

アンデスの中部(※1),特に現在のペルーを中心とした地域では,古代から様々な文化が勃興と衰退を繰り返して来ました。地上絵で知られる南部海岸地域のナスカ,15世紀半ばにペルーのほぼ全域を支配し,黄金が有名な帝国インカについては,当館でも特別展として皆様にご紹介しました。

一方,より赤道に近い北部海岸地域に栄えたのはこれらとは系統の異なる文化でした。例えばナスカとほぼ同時期,西暦100~750年頃にはモチェ文化が繁栄しました。モチェはペルー考古学で最も研究が進んでいる文化のひとつで,ピラミッド状の神殿や,当時の人々の様子を描写した土器が残っています(詳細次項)。

しかしモチェ衰退後,15世紀後半に南部高地地域からインカが勢力を拡大する以前のこの地域の文化は,最近までほとんど知られていませんでした。アンデスの文明には文字が存在しないこと,遺物の多くが盗掘者によって掘り出されたため,発見場所や状況の記録が正確でなかったり,悪くすれば記録そのものがないことが研究を困難にしていました。

僅かな手掛かりはそれまでインカのものとされてきた遺物に混ざった,インカとは異なるデザインの金細工や土器でした。特に特徴的だったのは,遺物に描かれている神らしき存在の目の形です。丸い目を持った神に混ざって,釣り上がった大きな目(その形からアーモンドアイと呼ばれます)を持つ神の造形があったのです。

ロロ神殿_プラットフォーム西側の墓の主体の発掘

日本人考古学者,南イリノイ大学の島田泉教授(現職)は,1978年,北部海岸地域の空白を埋めるべく調査を開始しました。教授がフィールドに選んだのは,北西部の商業都市チクラヨ(※2)から北に約60キロの町,バタン・グランデと周辺地域でした。
バタン・グランデ周辺には,30基を越えるピラミッドがあります。ピラミッドはアドベ(日干し煉瓦)で造られ,大きなものでは底辺100メートル,高さ40メートルにもなります。年月を経て煉瓦が崩壊した今,森の木々の間に突き出した巨大な岩山のように見えます。
この地域での広範なフィールドワークを経て,島田教授はこれらのピラミッドを造った人々こそが,北部海岸地域の空白の時代を埋める文化の担い手であり,アーモンドアイを持つ神を信仰した人々でもあったと確信するようになりました。
モチェとインカの間の時代に栄えた,未だ知られていない国と文化を,島田教授はモチェのことばで『月の神殿』を意味する『シカン』と名づけました。

1991年,バタン・グランデの西約10キロにある神殿群の中心的な建造物『ロロ神殿』の発掘が開始されました。そこは盗掘者たちが掘った穴や,金銭的な価値がないとして打ち捨てられていた副葬品の調査,更には盗掘者自身への聞き取り調査から選定された,複数個所の発掘地点のひとつでした。
ロロ神殿は底面が一辺約80メートルの正方形で,高さは36~37メートルあります。神殿北側にはプラットフォームと呼ばれる構造が南北におよそ150メートルに渡って伸びています。その神殿の底面,プラットフォームの東側の付け根部分で,当時の支配階級の人物のものと思われる墓が発見されました。
墓は複雑な層構造を持ち,墓の主のほか生贄となった4名の人骨,黄金の仮面や黄金の装身具,トルコ石や紫水晶の玉などの豪華な副葬品を含め,発掘された遺物は1トンを超えました。そして仮面や杯に描かれた人物の目は,確かにアーモンドアイでした。

島田教授のグループはその後も発掘・調査を続け,昨年までにロロ神殿のほぼ全域の発掘を完了しました。周辺での発掘調査とも併せ,シカン社会構造や宗教,人々の歴史なども明らかになってきました。

今回のホットニュースでは,オープンまで2週間に迫った特別展『インカ帝国のルーツ ― 黄金の都シカン』に合わせ,シカンを含めたペルー北部海岸地域の文化史と,展示の見所をご紹介します。

※1 中央アンデスは南米大陸に進出した人類が農耕と牧畜を開始した当時から,それに適した地域でした。ジャガイモやトウガラシ,カボチャ,ピーナッツの原産地で,現在でも毛や革,肉が広く利用されている,リャマやアルパカなど家畜化されたラクダ科動物は,紀元前3,000年ごろには既に利用が始まっていた形跡があります。

※2 チクラヨの南東約30キロの郊外には,1987年に発見されたモチェの王墓,シパン遺跡があります。

(撮影 義井豊)

シカンへと至る途

南アメリカ大陸に人類が進出したのは更新世の終わり,およそ16,000年前,ユーラシア大陸からベーリング海峡を渡り,北アメリカを経由して南下して来たのが最初と考えられています。ティティカカ湖の北北西約100kmの高地で発見されたペルー最古の人骨は約11,500年前のものです。

今から4,000年以上前,海岸地方に土と石で造られた巨大建造物が出現しました。それは集落の長の住居とも,何らかの宗教的儀式の場であったとも言われ未だはっきりしませんが,建造の為の労働力を統率する,宗教的あるいは世俗的な支配階級が現れ,ある程度統制の取れた社会が既にあったことは解ります。

北部海岸地域で現在知られている最も古い文化は,紀元前1,200年~800年ごろに掛けて見られるクピスニケと呼ばれる祭祀文化です。
クピスニケは国ではなく,地域によって異なる神話や文物の集まりでした。このためクピスニケの文化を一概に特徴づけることは困難です。
土器の生産はこの頃始まり,バリエーションを変えながらこの後長く作られ続けることになる,馬のあぶみに似た形の取っ手のある水差しが登場しました。この頃始まったジャガーなどネコ科動物に対する宗教的崇拝も,以降長く続くことになります。
クピスニケの文化はその後,北・中部高地地域に発生したチャビン(紀元前1,000~200年ごろ)に統合されました。

チャビンは宗教的中央集権国家であり,神殿チャビン・デ・ワンタルには各地から献上品や巡礼が集まっていました。迷宮のように複雑な神殿の地下室や,ランソンと呼ばれる石塔状の神像,生贄の祭壇などが残されています。

チャビン文化は紀元前600年頃から徐々に衰退し,それと入れ替わりに北部海岸地域にも新たな文化が現れてきました。

特に勢力を拡大したのがモチェ文化です。モチェの代表的な建造物,太陽のワカ(Huaca,神殿など神聖なものを表すケチュア語)と月のワカは,ペルーの第三の都市トルヒーヨの東約5キロにあります。アドベで造られたピラミッドで,太陽のワカは高さ30メートル以上,当時の南北アメリカ大陸に於ける最大の人工建造物でした。
モチェの神々は人間と動物が融合した姿をしています。創造神で主神ともされるアイ・アパエックはヘビとコンドルと人間が一体化した神で,月のワカで見つかった壁画をはじめ土器や彫像にも多く登場します。

モチェは宗教国家であると同時に戦闘国家でもあり,神官と戦士が政治の中心を担いました。宗教的な儀式の場では彼らが神や伝説そのものとなって民衆と対話しました。土器の文様から儀式はピラミッドの頂上で行われ,人々はピラミッドを取り巻く広場に集って儀式を見物していたことがわかっています。
特に雨乞いの儀式では,戦争で捕らえた捕虜を神への生贄としました。トゥミと呼ばれる大きなナイフで首を斬り,王がその血を飲んでいました。生贄の首を持つアイ・アパエック神や,縄で繋がれた捕虜を描いたレリーフが残されています。

年表

モチェの文化で特徴的なのは,人間の顔を象った水差しや壷などの土器です。モデルは全て男性(顔型のもの以外では,女性を描いた土器もあります)で,傷や病気の痕など個人を特定できる具体的な特徴が描かれていました。
職業は種族の長や戦士など公的に重要な地位にある人々が多く,一生のうちに何度もモデルにされている人物もいました。全く同じデザインが何千個も複製される場合もありました。
政治的・軍事的主導者の顔を人々に覚えさせ,権力を強めたり正当化する役割を果たしていた可能性があります。

モチェは同時期に周辺に成立した複数の文化と交流,時には征服しながら勢力範囲を拡大し,西暦450~550年ごろに最大となります。
しかし,西暦550年以降,モチェは急激な衰退の道を辿りました。滅亡の直接的な原因は諸説ありますが,550年代広範に発生したエル・ニーニョによる暴風雨・洪水,続く560年代から約30年に渡った旱魃が一因となった可能性があります。
太陽と月のワカは放棄され,モチェの最後の約150年間はより水を得やすいモチェ川上流のガリンドが新たな政治的中心となりました。

参考:The Cultures of Ancient Peru(英文)Luis Felipe Villacorta Ostolaza著 Stepen Light訳

黄金の都シカンの盛衰

シカンの時代は文化的な変化などから,初期・中期・後期の3つの時代に大別することができます。
西暦800年からおよそ100年間の初期シカンについては,現在までに調査された遺跡の数が少ないため,詳しいことは良く解っていません。
先行文化としてモチェや,モチェ衰退期に中南部山脈地域から侵入したワリがありますが,それらの文化や宗教的概念を継承したことが,発展の原動力のひとつとなったと考えられています。

初めにご紹介したバタン・グランデ西の神殿群は,10世紀から11世紀の前半までに,中期シカンで造られたものです。
神殿は政治,信仰,そして葬祭の中心であり,頂上部には祭壇,底面周辺には多数の墓所が造られていました。祭壇は天へ,墓所は地底へ向かっていることから,天と地を,更にはその両者に挟まれた地上をひとつに繋ぐ,シカンの宗教的世界観の中心ともなっていました。

中期シカンの美術様式の特徴のひとつ,仮面や土器など様々な場面・用途に登場するアーモンドアイの人物は,シカンの創世神(※3)の姿を描いたものです。

シカンの宗教にとって支配者の葬礼は非常に重要な意味を持つものでした。
支配者が亡くなると,遺体は人々が見守る中,埋葬の場へと運ばれます。副葬品は死者が次の生で使うためのものとされ,全て人々に公開されました。
墓所の中まで付き従うのはごく少数の人々でした。死者に被せられる黄金のマスクは目・鼻・口の穴が開いておらず,生前から使っていたものではなく埋葬専用とも考えられます。死者の魂は祖先の下へ飛び去り,マスクが象徴する神と同列になると信じられていました。

ロロ神殿東の墓の黄金仮面ロロ神殿東の墓の黄金仮面(撮影 義井豊)

副葬品は,シカンの人々が築いていた広範な交易ネットワークを知る為の手掛かりでもあります。黄金の源となる金鉱も,多数副葬されていたウミギクガイやイモガイなどの貝も,バタン・グランデ周辺では手に入らないものでした。金は東方,マラニョン川の流域に,貝は北方,赤道に近い地域に求める必要がありました。

中期シカンで特に発達していたと思われる技術に,土器製作と金属精錬があります。
中・後期シカンの土器の特徴のひとつが,表面が黒く,特徴的な光沢を持っていることです。窯を密閉して内部の酸素濃度を下げ,800℃以上の高温で焼成することにより,薪などの有機物を含んだ燃料から発生した煙に含まれる炭素が土器に浸透し,更に表面に黒鉛の結晶層をつくります。これにより,鉛筆の芯の色のような,光沢のある黒が生まれたのです。
金・銀・銅からなる合金『トゥンバガ』の製作技術はモチェの時代に生まれ,シカンで完成されました。金の含有量はそれほど高くなく,低いものでは十数パーセント程度でしたが,酸を使って表面の銅や銀を取り除くことで,美しい金色を作り出すことができました。
純金の細工も勿論作られており,こちらはハンマーを使って伸ばした金の薄板が使われていました。透かし彫りやロストワックス,彫刻など,現在にも通じる様々な技法が組み合わせられ,製品も王冠や腕輪,胸当て,紋章など多岐に渡りました。

シカンの社会には歴然とした身分・階級制度がありました。
身分の違いを如実に表したもののひとつが,墓の副葬品です。最も身分の低い庶民の墓では,金属製品は砒素銅(青銅)製のものしか見つかっていません。中間的な階層の人々の墓の副葬品は,砒素銅のほかにトゥンバガや,砒素銅・銀の合金で作られていました。金の含有量の高い合金は,最も身分の高い人々の墓にのみ許されたものであったようです。

シカンの衰退と滅亡は,モチェの場合と良く似た経緯を辿っています。1020年ごろから30年続いた旱魃と,それに続いて1050年ごろから50年に渡る極めて大規模なエル・ニーニョによる豪雨・洪水によって神や支配者に対する信頼が揺らいだのです。バタン・グランデ西の神殿群は政変により焼き払われ,人々は約10キロ西方,現在のトゥクメに新たな拠点を築きました。
後期シカンは,トゥクメに移った後,西暦1100年ごろに始まります。美術様式は中期のものと大きくは変わりませんが,政変に伴い信仰が失われたのでしょう,アーモンドアイの神のモチーフは姿を消してしまいました。
1375年ごろ南方からチムー王国の侵攻によってシカンは滅亡を迎えました。しかし文化や美術はチムーのものと混合する形で引き継がれ,更におよそ100年後には北部海岸一帯を支配下に収めたインカ帝国の文化へと取り込まれていきました。

※3 16世紀,スペイン人の年代記作家バルボアが,現地住民以外として初めて,後にシカンと呼ばれることになる文化とその伝承・神話を記録しました。
バルボアの記録によれば,シカン文化は北の海から訪れた祖先ナイムラップによって伝えられました。ナイムラップは当時北部海岸地域に住んでいた人々(モチェの末裔であるかどうかは触れられておらずはっきりしません)に政治や農業,芸術を教えたとされており,シカンの創世神として信仰されました。

シカン人のDNAをよむ

今月14日より,上野本館にて開催予定の特別展『インカ帝国のルーツ ― 黄金の都シカン』。当記事では紹介しきれなかった最新の調査結果や,シカンの文化を代表する黄金製品・土器などが数多く展示されます。
今回の展示制作の担当者のひとり,国立科学博物館人類研究部人類史研究グループの篠田謙一グループ長に,シカン研究との関わりや今回の展示の楽しみ方をインタビューしました。

Q:先ず初めに先生と,シカンとの出会いについて教えてください。
A:私自身は直接関与しなかったのですが,1994年に科博で開催された特別展『黄金の都シカン発掘展』がきっかけになっています。『黄金の都~』展は科博でアンデスの文明を扱った展示としては初めてのものでした。当時の科博の人類研究部長は山口敏先生でしたが,私はその時期に山口先生と一緒に中国で渡来系弥生人の研究をしていました。
『黄金の都~』展が成功裏に終わったのち,1999年,アンデス第2段として,モチェを扱った展覧会が全国で開催されることになりました。これは科博では開催されませんでしたが,この時,前述の山口先生とのご縁から,モチェの人々のDNAの研究を頼まれ,島田先生と初めてお会いし,共同研究をすることになりました。
シカンに関しては1999年のシアルーペ(ロロ神殿の更に西方,金属や土器の工房が発見されています)の調査からご一緒しています。2000年以降は実際の発掘にも立ち会うようになりました。

Q:シカンの人々のDNAとはどのようなものですか?どのようなことが解ったのでしょうか?
A:分析に使ったDNAは,細胞の中にあるミトコンドリアという小器官が持つDNA(※4)です。ペルーの北部海岸地域では,シカンを含め幾つもの文化が入れ替わりました。この時そこに暮らしていた人々そのものが入れ替わったのか,人はそれほど変わらず文化だけが変容したのかを理解するため,様々な時代の人々の人骨の分析を行いました。
その結果,各時代を通じて人々の大規模な入れ替わりや,人口の大幅な減少はなかったことが解りました。ペルーの北部海岸地域は,元々多くの人口を抱えており,そのため特に人々の集団を入れ替えなくても,同一の集団によって文化を受け継いで行くことができたのでしょう。一方で南部海岸地域では集団が明確に入れ替わったという結果が出ています。

Q:これからの研究のご予定について教えてください。
A:島田先生が2005年以降,ペルーの首都リマの近郊,パチャカマック遺跡の調査を開始されています。ここは紀元前からインカまで,各時代の宗教センターのような役割を果たしていた場所です。現在もペルーの聖地になっていて,発掘の許可は簡単には降りないところなのですが,島田先生はこれまでのペルー考古学への貢献が評価されて,発掘を開始することができました。私はここでも出土した人骨のDNA分析を行っています。
文明が入れ替わって行くとき,担い手となる人々そのものが変わるのか,文化だけが変わるのかを理解する為には,シカンだけでなく広い範囲の人々のDNAを調査し,人間の移動があったかどうかを知る必要があります。ペルーではこれまでに北部海岸・南部海岸を調査しました。これからは高地・山岳地帯をターゲットとしていきたいと考えています。

発掘の様子上:2006年に発掘された人骨 下:2008年発掘の様子(いずれも撮影 義井豊)

Q:ありがとうございました。最後に今回のシカン展の見どころを教えてください。
A:島田先生が調査を開始される以前は,モチェが滅亡した後のライバイエケ地方(北海岸)の歴史は,『どうやら何かあったらしい』とぼんやりと認識される程度の認識しかありませんでした。しかし,島田先生とシカン学術調査団の30年間の調査によって,これまで盗掘されて由来の分からなかった黄金製品や土器が,この地域の文化を担った人々が作ったことが明らかとなりました。
調査は各時期ごとの特徴の解明に始まり,今ではシカンの社会構造やシカン人の宗教観・世界観に迫ろうとしています。今回のシカン展を通じて,ほとんど何も情報がなかったところからひとつの社会が復元されて行くまでの考古学のプロセスを見て頂ければ面白いと思います。
とかく考古学というと,土器の特徴から作られた時代や順序を分析する,編年が中心テーマだと考えられがちですが,最近では社会の復元,さらには文明とは何かということをテーマに研究が進められています。特にアメリカでは考古学は人類学の一部門と捉えられています。つまり「人間とは何か」という問に答えるための学問なのです。私たち自然人類学の研究者は,生物学的な側面から「ヒトとは何か」という問に答えようとしています。双方の研究成果が合わさったときに,より深い人間への洞察が生まれることになります。シカン文化の発掘調査もそんな共同作業のひとつなのです。

Q:ありがとうございました。

※4 細胞内小器官ミトコンドリアは女性由来の卵子には豊富に存在しますが,男性由来の精子には僅かしか含まれておらず,受精時に卵子に受け渡されることはほとんどありません。従ってミトコンドリアのDNAは通常母と子で全く同じであり,突然変異があった場合のみ変化することになります。この性質を利用して,祖先の出アフリカ後の移動経路や,世界の他の地域へ移動して行ったグループと別れたタイミングなど,所有者の母方の系統のルーツを探る研究に使われています。

(研究推進課 西村美里)

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