今,深海が面白い ― 微化石と海底掘削調査 (協力:地学研究部 谷村好洋)
地球最後のフロンティア?深海・海底探査の歴史
『魚のいない海水はすばらしく澄んでいて,その透明度は表現することばがないほどである』
『かつて一度も太陽の光を受けたことのない原始の岩,地球の強力な基礎をなしている最深部の花崗岩,岩山に深々と開いた洞穴(中略),照明灯の光を受けてきらきら輝く砂,その上にがっしりと立つ奇崛たる山塊,苔ひとつない黒く滑らかなその岩肌(後略)』
今から約140年前の1869年から1870年,フランスの小説家ジュール・ヴェルヌはSF小説『海底二万里』の中で,当時人類未踏の地であった深海と深海底の光景をこう綴りました。
地球上,最も深い地殻の裂け目。死海より塩分濃度の濃い湖。酸素を必要としない生物や,摂氏100度を超える高温の熱水の中で生息する生物。現代の私たちは,潜水技術と映像技術の進歩によって,小説よりも遥かに奇異な,深海の事実を目の当たりにすることができるようになりました。
しかし深海とその海底の全容は,今も多くの謎に包まれています。海面からの距離そのものや水圧に阻まれ,人間が深海底に到達することは未だ容易にはなっていません。有人・無人の潜水艇,探査船が複数活動していますが,未だ到達できていない領域がほとんどなのです。
チャレンジャー日本寄港時の航路図(企画展『深海探査と微化石の世界』より)『海底二万里』出版から2年後の1872年,イギリスの軍艦を改造した科学調査船HMSチャレンジャーがポーツマス港を出港,3年半に渡る深海の科学的探査が始まりました。『海底二万里』のイギリスでの出版は1873年であり,探査を提案・指揮した海洋学者チャールズ・W・トムソンがフランス語の原書を読んでいたかどうかも判りませんが,海洋を含め科学調査への興味,関心が学術的にも,エンターテインメントとしても高まっていた時代(※2)だったとは言えるのでしょう。
19世紀の半ばまで,深海は生物の存在しない,不毛な場所であるとの主張が多勢を占めていました。1844年,イギリスの自然科学者エドワード・フォーブスは自身の調査の結果などから,海面から300ファゾム(1ファゾムは約1.8メートル)にまで達すると生物は全く見られなくなると述べています。
しかし一方で,1,000ファゾムを超える深海から採集された生物もあり,フォーブス自身もその後の調査で,自らの主張の誤りには気づいていました。またこの頃から,海中にすむ生物の特徴は,海域の気候・海水の成分・海水温の3つの要素と,海底の状態で規定されているらしいことは既に判っていました。
生物はどの程度の深さまで存在できるのか,深海にすむ生物はどのような姿をしているのか。深海は或いは,既に絶滅したと思われる生物が生き残る聖域となってはいないだろうか。チャレンジャーの航海は,これらの疑問に答えようとするものでした。
チャレンジャーは海底の深度や海水温の測定,動植物や海底の泥の採集を行いながら世界を1周し,途上日本にも寄港して歓迎を受けました。
魚類からウミガメの発生,クジラの骨格,サンゴや腕足類,ミジンコなどの小型の甲殻類,クモヒトデなど,発見・採集された生物は膨大であり,全ての記録が纏まるまでには19年が必要でした。生物,寄港地の風景を含め全ての報告に詳細なスケッチが添えられています。
※1 深海の明確な定義はありませんが,一般に海面下200メートルより深い海をいいます。太陽の光がほとんど,或いは全く届かないこと,水圧が高いこと,熱水鉱床などを除けば水温が低い場合が多いことなど,浅海とは全く異なる環境となっています。
※2 陸上の博物学・科学的探検はチャールズ・ダーウィンも参加したビーグル号の1831~1836年(『種の起源』発表1859年)の航海や,アルフレッド・ウォレスが1854~1862年(『マレー諸島』発表1869年)に行ったマレーシア・インドネシアの調査などがあります。
冒頭引用:創元SF文庫『海底二万里』荒川浩充訳
深海・深海底の探査が教えてくれるもの
HMSチャレンジャーの航海の報告書『Report of the Scientific Results of the Voyage of H.M.S. Challenger during the years 1873-76』は,採集された海底の泥の中から発見された放散虫や有孔虫,珪藻などの微小生物の殻や骨格の記録に多くのページを割いています。
放散虫は海洋プランクトン(原生動物)の一グループの総称です。大きさは数十マイクロメートルから,大きいものでも数ミリ程度,種ごとに異なる複雑で幾何学的な形状のガラス質の骨格を持ちます。海水中で浮遊生活をしていますが,骨格は死後沈降し,海底に降り積もります。チャレンジャーが発見したものはこの骨格の部分でした。
チャレンジャーによって報告された放散虫は739属4,318種に上り,そのうち約8割に当たる3,508種が新種として記載されました。
放散虫は古生代カンブリア紀には既に登場し,現代まで生息しています。浅海から深海まで幅広く分布すること,時代に伴う種の変化が早いことから,地層に含まれる放散虫の化石を見ることで,地層が堆積した時代を推定することができます。このような化石を示準化石と呼びます。
有孔虫も海洋プランクトンですが,骨格の代わりに主に石灰質から成る殻を持ちます。放散虫と同じく浮遊生活をする浮遊性有孔虫と,海底に生息する底生有孔虫(※3)があり,大きさは0.1~1ミリ程度のものが多く見られます。
放散虫と同じく示準化石ですが,殻の形態が生息する場所の水温や深度,栄養塩濃度などによって異なっていることから,地層が堆積した当時の環境を推定できる示相化石としても用いられます。
チャート(上)と珪藻土(いずれも企画展『深海探査と微化石の世界』より)特に良く知られているのは殻に含まれる酸素と炭素の同位体比を利用した気候の推定です。
原子の中には,同じ原子番号(同じ名前の原子)でありながら,通常と中性子数が異なるものが存在し,これらを同位体と呼んでいます。例えば酸素原子では,通常,原子核の陽子と中性子は共に8個ですが,稀に中性子が9個のもの,10個のものが存在します(中性子の個数が8~10以外のものも確認されていますが,いずれも不安定でごく短時間で崩壊してしまいます)。通常のものを16O,中性子数が10個のものを18Oと表記します。
詳しい仕組みはここでは割愛しますが,海水中の18Oの16Oに対する存在比は海水温が低い時に大きく,海水温が上がると小さくなります。この同位体の比率は微小生物が殻を作る際,構成成分に取り込まれるため,殻の化石に含まれる同位体比を分析することで殻が形成された当時の気候を推定することができます。
海底に沈降した微小生物の死骸は,新しく積もったものほど上に,古いものは下にと層を成して堆積しています。堆積物は時間と共に硬く固まり,放散虫ならチャート,珪藻なら珪藻土といった堆積岩を形成します。これら堆積岩は海洋プレートに乗って移動するため,プレートの形成場所である海嶺に近いほど新しく,プレートの沈み込みが起こっている海溝に近いほど古くなります。
即ち,海溝になるべく近い場所で,なるべく深いところにある堆積岩を手に入れることができれば,より古い時代の環境を調べることができることになります。
※3 沖縄などで採集できる星粒のような形の海岸堆積物,いわゆる『星の砂』は,底生有孔虫ホシズナ(または類似した形状の殻を作る有孔虫)の殻が死後打ち上げられたものです。
地球を掘る:海底掘削船の挑戦
HMSチャレンジャーの航海から間もなく140年。深海探査の技術は格段に進歩しました。
日本の有人潜水探査船『しんかい6500』は,水深6,500メートルまで潜ることができる世界唯一の有人探査船として1,000回を超える潜航を行い,海底の堆積物のみならず深海生物,海洋地殻についての調査を行ってきました。無人探査機『かいこう』は世界で最も深いマリアナ海溝で10,911メートルまでの潜航に成功したほか,同じくマリアナ海溝で1万メートルを超える深海から世界で初めて生物の採取にも成功しています(2006年より,7千メートル級の探査機『かいこう7000Ⅱ』が運用中です)。
しかし,初めにもお伝えした通り,深海には今も未踏の領域が多く,未解決の謎も数多く残されています。
統合国際深海掘削計画(IODP)は,日本とアメリカを中心にEU,中国が協力し,深海底を掘削することによって地球環境の変動や地球生命の起源,地震発生のメカニズムなどの解明を目指す国際プロジェクトです。日本は2005年7月に地球深部探査船『ちきゅう』を完成させた他,アメリカの科学掘削船『ジョイデス・レゾリューション』にも多くの日本人科学者が乗船して研究を行っています。
日本館3階『日本列島の素顔』より『ちきゅう』2009年9月から11月に掛けて,『ジョイデス・レゾリューション』は日本から約1,500キロ,北太平洋沖の海底にある超巨大火山,シャツキー海台の掘削を行いました。海台が作られる仕組みを探ることが目的でした。
この航海には国立科学博物館から2名の職員が乗船し,船上での研究や日常生活についてのリポートを行いました。詳しくは下部リンクから『地球をほる?』をご参照ください。
『ちきゅう』は世界最高の掘削能力(海底下7,000メートル)を持ち,IODP計画の主力船として期待されています。
大深度の掘削によって,地球環境の変化だけでなく,地下奥深くに残されているかもしれない原始生命の探索や,地震発生メカニズムの解明,更にはマントル物質の直接採集を目指しています。
昨年2009年には和歌山県沖の熊野灘,海底下540メートルから堆積岩とその下の基盤岩の境界線を発見,回収に成功しました。基盤岩を構成していたのは玄武岩質の枕状溶岩で,枕状溶岩はやがてプレートの移動によってプレート境界へ持ち込まれ,巨大地震を引き起こす滑りの一因になるとも考えられます。また,海底下に地下水が流れていることや,1千万から500万年前に伊豆・小笠原方面から火山灰の流入があったらしいことなども判りました。
2009年の掘削はプレートの沈み込む直前の海底で行われましたが,今後は沈み込み帯の真上からの掘削も行われる予定です。特に海底下6千メートルにあると言われる地震発生帯に到達する為には,プレートがその下に沈み込んでいるユーラシアプレートを貫く掘削が必要になります。地震発生のメカニズムの解明に加え,掘削孔にセンサーを設置することによって,地震発生と同時に陸上へ素早く情報を発信できるシステムが構築できれば,防災にも大きな助けとなるでしょう。
これら海底掘削調査の結果については,IODP・JAMSTECのホームページでそれぞれ公開されています。
科博からのお知らせ
2009年12月12日から2010年2月28日まで,日本館1階企画展示室で,企画展『深海探査と微化石の世界 ― HMSチャレンジャーから“ちきゅう”まで ― 』を開催しています。
今回ご紹介したHMSチャレンジャーの航海の報告書の実物や,チャレンジャーの探検航海で深海底から採取され,英国自然史博物館に保管されていた堆積物試料,見ているだけでも美しい放散虫のスケッチ,1961年に始まる海底掘削50年の歴史,最新の科学掘削の様子などを通じて,地球の姿や地球環境の変化の歴史をご覧頂くことができます。
また,ここではご紹介しきれなかった,放散虫や有孔虫の生きている時の姿や,殻の微細な構造を観察することもできます。研究者が作った微化石の編みぐるみは,細部まで本物そっくりです。
会期も残り短くなってきました。入館料のみでご覧頂くことができますので,是非この機会にお立ち寄りください。
(研究推進課:西村美里)
微化石(ハプト藻)の模型(上)と編みぐるみ
(いずれも企画展『深海探査と微化石の世界』より)