渋川春海 ― 紙張子製地球儀・天球儀を作った江戸の天文学者

渋川春海 ─ 紙張子製地球儀・天球儀を作った江戸の天文学者

重要文化財 紙張子製地球儀・天球儀特別公開 江戸時代の天文学者『渋川春海』

(写真は、NEWS展示「重要文化財 紙張子製地球儀・天球儀特別公開 江戸時代の天文学者『渋川春海』」準備の様子です。重要文化財は、大切に箱に入れて保管されています。扱うときは、手袋は必須です。)

最近ニュースなどでも、最先端の宇宙や天文学に関する話題がよく登場しますね。これらの最先端研究は、はるか昔から現在まで様々な研究者によって発展させられてきました。

天文観測と暦(時間に目盛りを入れること)はとても深いつながりがあります。天体の運行ルールに基づいて、時間を数える目盛り=暦が作成されているからです。 暦の作成や天文研究など、多くの業績を残した渋川春海。

今年は、当館所蔵の渋川春海作の紙張子製天球儀・地球儀の重要文化財指定20周年となり、さらに、時の記念日(6月10日)制定90周年にあたります。そこで、平成22年6月8日(火)~9月5日(日)の間、渋川春海作の紙張子製地球儀及び紙張子製天球儀(重要文化財:実物)を特別に公開して、その他、渋川春海に関係した星図・暦等の資料を展示して、パネル解説によって、江戸時代の天文学者『渋川春海』の業績を紹介するNEWS展示を行っています。
(2010年6/8(火)から9/5(日)まで、日本館1F南翼入口で展示中です。)

特に、渋川春海を主人公とした小説「天地明察」(冲方丁著)が昨年刊行されて、話題となっていますね。

今回のホットニュースでは、江戸時代の天文学者『渋川春海』について、そして、彼の行った重要な仕事について見てみましょう。NEWS展示パネル解説では、紹介できなかった内容を含め、もう少しだけ詳しく紹介します。

幕府初代天文方となった人 ─ 渋川春海とはどんな人?

天文方

渋川春海は、寛永16年閏11月3日(1639年12月27日)、幕府碁所四家(囲碁を家業とする家)の一つである安井家に生まれました。幼くして神童とよばれるほど才能を発揮し、家職である囲碁は七段上手に達し、時の本因坊道策らとの御城碁(将軍御前での対局)の記録が残っています。父である1世安井算哲亡き後、初めは2世安井算哲として幕府碁方を勤めました。

また、「儒学」や「神道」の大家である山崎闇斎(1618~1682)から学び、また「安倍神道」について、「陰陽頭」(天文や暦を編纂する部署のリーダー)であった土御門(安倍)泰福(1655~1717:山崎闇斎の弟子として春海と同門)から学び、さらに、「天文暦学」を和算家の池田昌意や暦算家の岡野井玄貞らに学び、特に中国暦法の中で最も優れているといわれる「授時暦」を研究しました。

渋川春海はこのように、「囲碁」、「神道」、「天文暦学」について学び、優れていたため、会津藩主の保科正之や水戸藩主の水戸光圀らの幕府高官に招かれて、新しい暦を作成する改暦を勧めました。特に保科正之は、三代将軍徳川家光の弟で、四代徳川家綱の後見として、「儒学」を盛んに進めていました。保科正之は春海の師の山崎闇斎から儒学・神道を学び、渋川春海を会津に招いたこともありました。渋川春海が貞享暦改暦に成功した陰には、このような幕府の高官との様々な交流がありました。

新しい暦である「貞享暦」作成が認められ、貞享元年(1684)に、渋川春海は天文方に任じられました。元禄15年(1702)からは、先祖の姓、渋川を名乗りました。 そして、正徳2年10月6日(1715年11月1日)に没しています。

渋川春海の研究活動

渋川春海は、様々な天文学研究を行いました。 新製渾天儀を始めとする観測儀器や天球儀・地球儀などの儀器を作成したほか、「天文瓊統」などの天文書や「日本長暦」などの暦書、星図などを著わしています。

万治2年(1659)21才の時には、中国・四国地方を周遊して、各地の緯度を測り、日の出入りや刻差(経度差)、等を測定しています。その後も、天体観測を行い、観測機器の改良にもつとめ、寛文10年(1670)新制渾天儀を製作しています。

春海の著作は多く、「貞享暦書」「日本長暦」をはじめとする多くの暦書、天文知識を集大成した「天文瓊統」、中国由来の星図や、観測に基づいた日本独自の星座を記入した星図「天文成象」図などを著わしました。

暦を新しくする! ─ 貞享暦改暦とは?

貞享暦改暦貞享暦 新しい暦(宝暦暦)となる直前の最後の貞享暦(宝暦4(1754)年版)

江戸時代、日本での天文学は暦を作成するためのものでした。「天文暦学」と呼ばれます。渋川春海は、実際の天体観測に基づいて、初めて日本の地に適する日本独自の暦である「貞享暦」をつくり、江戸幕府初代の天文方に任じられました。貞享元年には、渋川春海の大和暦が採用となり、当時の元号から「貞享暦」と命名されました。この業績によって、幕府から新設の天文方に任命されました。「貞享暦」は、貞享2年(1685年)から施行となり、宝暦4年(1755年)に新しい暦となるまでの70年間使用されました。

江戸時代はじめまでの日本では、平安時代に唐(中国)から輸入された暦、宣明暦が800年以上も使い続けられていました。しかしこの暦は、中国の経度・緯度に合わせて作られた暦であり、また長年の間に、太陽・月・星の現象である「天象」とのずれが蓄積されていました。そこで、渋川春海の活躍した時代には、日食や月食などの「食」の予報がしばしば外れることなどがあり、改暦の機運が高まっていました。

天文暦学を学んだ渋川春海は、中国・元の授時暦が優れていることを知り、延宝元年(1673)授時暦の採用を幕府に提案しました。しかし、授時暦は延宝3年(1675)5月の日食で予報を失敗し、かえって宣明暦のほうがが当たったので、授時暦の採用は見送られました。

そこで渋川春海は、昼は太陽、夜は月・星を観測し、当時最も参考にされていた世界地図「マテオ・リッチの世界図」に基づいて、日本と中国の経度差を考慮にいれて、「授時暦」を改良した「大和暦」を作成しました。天和3年(1683)再びこの暦に改暦するよう提案しまたが、大多数の意見により、中国・明の「大統暦」を採用することになりました。そこで三度目の提案をして、「大統暦」と「大和暦」を実際の観測でどちらがより精巧かを比べることになりました。その結果、「大和暦」が優れていることが判明し、貞享元年に新しい暦として採用されました。新しく「貞享暦」と名づけられ、貞享2年(1685)から施行されたのです。渋川春海は、この業績によって、幕府から新設の天文方に任命されました。江戸時代の作家、井原西鶴は、この改暦の影響を受け『暦』という浄瑠璃脚本を書いています。

渋川春海が本当に見たこと  ─ 紙張子製地球儀・天球儀

紙張子製地球儀

渋川春海は、多くの暦書、天文書また、「天文成象図」等を著して、さらに、地球儀、天球儀なども製作しています。

地球儀とは、地表面の様子を球体の上に描いて表現したもので、本来球体である地球上の位置関係、水陸の分布、経線・緯線などを正しく示すことが出来ます。日本での地球儀は、江戸時代以前では、天正年間に織田信長が所有していたこと、また、天正19年に遣欧使節が持ち帰って、豊臣秀吉に献上したことが知られています。

また、天球儀とは、天に見える星の位置を球面に書き記し天球をかたどったもので、星図の一種と言えます。球面上には恒星や星座の位置の他に、赤道や黄道、南北の両極やその他の経緯線が記入されて、天文学についての考察や教育を目的として用いられてきました。天球儀の歴史は古く、西洋、東洋共に紀元前後ころから製作されていたようです。

天の動きを知り、暦を理解することは、幕府を初め、重要な教養のひとつとされていました。藩校や私塾などでは、天文学も盛んに教えられ、授業では教材として地球儀や天球儀が使われることもあったようです。

国立科学博物館では、渋川春海作の紙張子地球儀・天球儀を所蔵しています。具体的に、紙張子製地球儀・天球儀、それぞれどのようなものか、(上記の解説を)見てみましょう。今から300年以上も前に、渋川春海は、地球儀や天球儀を作成しながら、どのような世界・宇宙・未来をイメージしていたのでしょうか。

監修/協力 国立科学博物館 理工学研究部 西城惠一

参考文献
論文:西城惠一(2000)「国立科学博物館所蔵の渋川春海作江戸時代天球儀」Bull.Nat.Sci.Mus.,Ser.E,Vol.23,pp.1-25.
論文:西城惠一(2001)「渋川春海作江戸時代地球儀とその復元模型製作」Bull.Nat.Sci.Mus.,Ser.E,Vol.24,pp.13-24.

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