「発見する眼」を次の世代へ -標本図の技術を伝える筑波実験植物園の取り組み
はじめに

左:新種の発表に使った標本図のひとつ。描かれた植物は,筑波実験植物園の研究グループが発表したラン科のシテンクモキリ(作図:中島睦子) 右:3月に筑波実験植物園で開催した展示「発見する眼-ランでみるサイエンティフィック・イラストレーション」のようす
印刷や情報技術の発達によって,世界中の植物のかたちや色がすぐさまわかる時代になりました。こんな時代になぜ押し葉標本を観察し,モノクロームの点と線だけで植物を描く必要があるのでしょうか。残念なことに,日本では標本図を体系的に紹介する機会がなかったため,その意義や技術はほとんど知られていません。そして技術の継承もあやうい状況にあります。
科学の基盤をしっかり支えていくことは,博物館・植物園のたいせつな役わりです。筑波実験植物園では,標本から生物のかたちを記録する標本図の技術を次の世代に伝える取り組みを進めています。2012年から「科学のための植物標本図を描く」と題した講座をおこなうとともに,さる3月のつくば蘭展では,企画展示「発見する眼-ランでみるサイエンティフィック・イラストレーション」を開催しました。
標本図はなぜ必要か

左:前ページの標本図のもとになったシテンクモキリの押し葉標本。標本は研究に不可欠な資料だが,そのままではもとの形を正確に知ることがむずかしい 中央,右上下:シテンクモキリの写真。写真は色彩や雰囲気を記録するすぐれた方法だが,すべての部分の形の特徴を捉えることはできない
標本図とは何でしょうか?生物の研究では,証拠とする標本を作って保存するのが原則です。生物には寿命があるうえ時間とともに特徴が変わるので,標本にしない限り記録としてとどめることができないからです。研究者は標本を使って解析し,わかったことを図に起こして発表します。つまり図は研究の一部です。したがってデータとして使える図を作ること,標本から生きているときの特徴を再現することは,植物画(ボタニカル・アート)を描くのとは違った技術が必要です。そこで標本図,あるいはサイエンティフィック・イラストレーションという言い方で区別します。
いまや携帯電話で写真を撮って動画さえ見ることができる世の中です。図にこだわる必要はないように思えます。ところがカメラは,物体のすべての部分にピントのあった記録を残すことができませんし,不要な情報まで写してしまいます。また生物の特徴は複数のサンプルを使って,さまざまな角度で観察することによってはじめて捉えることができますが,写真はひとつのサンプルの,ある位置から見た画像に過ぎません。このように生物の特徴を再現するには,ヒトの眼で統合した情報をペンで記録するのがもっともすぐれた方法です。まさに標本図は「発見する眼」なのです!
標本図ができるまで

左:多数のスケッチから目的に合うものを選び、レイアウトを決める 右:電熱器で標本を煮戻す。押し葉標本の花は生きていたときの形を取り戻す
ではどのように標本図は作られるのでしょうか?美術作品との大きな違いは,研究者と画家が共同で制作するところです。植物のどの部分をどの視点から描くか,どこをどのくらいの倍率で見せたいかといった注文を研究者が出し,画家は実体顕微鏡で観察しながらスケッチします。スケッチした下描きを使って研究者と画家は意見を交わし,研究者の意図が十分に伝わるまで改訂を繰り返すこともしばしばです。そして数多くの下描きの中から目的に合うものを選んでレイアウトし,インクで輪郭と陰影をつけていきます。ここでもなんどか修正を施されることがふつうです。論文に使う1枚の図ができるまでには,たいへんな手間がかかっていることがお分かりいただけたでしょうか
また標本から図を作るには,さまざまなノウハウがあります。たとえば,押し葉標本はその名の通りつぶれているため,花の立体構造が失われています。こうした場合,ビーカーに乾燥した花と水を入れ,電熱器や電子レンジを使って温めるともとの形がよみがえり,生きていたときの姿を描くことができます。
残念なことにこうした技術を学ぶ場が日本にはありませんでした。このことが標本図の技術の継承をあやうくしている原因に他なりません。
より正確に,より多くの人に -標本図の過去,現在,未来

上:展示した標本図のひとつ。日本の標本図の技術を世界に知らしめた牧野富太郎のホテイランの図(『大日本植物志第1巻第4集』より, 1911年) 下:筑波実験植物園で開催した講座「科学のための植物標本図を描く」のようす
サイエンティフィック・イラストレーションの歴史は,情報をより正確に,より多くの人に伝える歴史です。これは科学の根幹に関わるテーマでもあります。またそこには,印刷技術や情報科学の発達とも交錯する深く大きな世界がひろがっています。3月の筑波実験植物園の企画展は,植物標本図の意義と歴史を解き明かすはじめての展示として,全国の博物館,美術館の学芸員の方々からも高い評価をいただきました。
会場では標本図講座を受講された方たちの卒業作品も展示しました。標本図の歴史を代表する500年にわたる作品のかずかずと同じ空間を共にしたことは,標本図の技術が未来につながることを力強く宣言するものです。受講者の中から次の時代のサイエンティフィック・イラストレーションを担う人材が育つことを願ってやみません。
これらの講座,展示は,植物標本図作家の中島睦子氏のご尽力なくしては実現できませんでした。心からお礼申し上げます。
〈執筆・監修〉
国立科学博物館 植物研究部 多様性解析・保全グループ グループ長 遊川 知久