2010-06-15

渋川春海 ― 紙張子製地球儀・天球儀を作った江戸の天文学者


幕府初代天文方となった人 --- 渋川春海とはどんな人?

 

 渋川春海は、寛永16年閏11月3日(1639年12月27日)、幕府碁所四家(囲碁を家業とする家)の一つである安井家に生まれました。幼くして神童とよばれるほど才能を発揮し、家職である囲碁は七段上手に達し、時の本因坊道策らとの御城碁(将軍御前での対局)の記録が残っています。父である1世安井算哲亡き後、初めは2世安井算哲として幕府碁方を勤めました。

 また、「儒学」や「神道」の大家である山崎闇斎(1618〜1682)から学び、また「安倍神道」について、「陰陽頭」(天文や暦を編纂する部署のリーダー)であった土御門(安倍)泰福(1655〜1717:山崎闇斎の弟子として春海と同門)から学び、さらに、「天文暦学」を和算家の池田昌意や暦算家の岡野井玄貞らに学び、特に中国暦法の中で最も優れているといわれる「授時暦」を研究しました。

 渋川春海はこのように、「囲碁」、「神道」、「天文暦学」について学び、優れていたため、会津藩主の保科正之や水戸藩主の水戸光圀らの幕府高官に招かれて、新しい暦を作成する改暦を勧めました。特に保科正之は、三代将軍徳川家光の弟で、四代徳川家綱の後見として、「儒学」を盛んに進めていました。保科正之は春海の師の山崎闇斎から儒学・神道を学び、渋川春海を会津に招いたこともありました。渋川春海が貞享暦改暦に成功した陰には、このような幕府の高官との様々な交流がありました。

 新しい暦である「貞享暦」作成が認められ、貞享元年(1684)に、渋川春海は天文方に任じられました。元禄15年(1702)からは、先祖の姓、渋川を名乗りました。 そして、正徳2年10月6日(1715年11月1日)に没しています。

 ■ 渋川春海の研究活動
 渋川春海は、様々な天文学研究を行いました。 新製渾天儀を始めとする観測儀器や天球儀・地球儀などの儀器を作成したほか、「天文瓊統」などの天文書や「日本長暦」などの暦書、星図などを著わしています。

  万治2年(1659)21才の時には、中国・四国地方を周遊して、各地の緯度を測り、日の出入りや刻差(経度差)、等を測定しています。その後も、天体観測を行い、観測機器の改良にもつとめ、寛文10年(1670)新制渾天儀を製作しています。

 春海の著作は多く、「貞享暦書」「日本長暦」をはじめとする多くの暦書、天文知識を集大成した「天文瓊統」、中国由来の星図や、観測に基づいた日本独自の星座を記入した星図「天文成象」図などを著わしました。