1910年(1902年)の7月から10月にかけての大噴火の様子を記録した写真です。7月半ばからの前兆の地震と鳴動に続いて7月25日に北側山麓の洞爺湖畔に初めの爆発火口が開き、その後10月に噴火が鎮まるまでに火口の数は45個にもなりました。大量の火山灰・火山礫(れき)を噴出し、また泥流も生じました。人的被害は少なく、泥流による死者1名にとどまっています。後の昭和新山を形成したの噴火(1943-45年)のときと違い溶岩そのものは地上に現れませんでしたが、地下のマグマの上昇によって地面が持ち上がり、明治新山(一名四十三(よそみ)山)が形成されました。