1888(明治21年)年7月15日の朝、前兆と思われる地震と鳴動に続き、7時45分頃大音響を伴って爆発が起こりました。これにより山頂部から北側が東西2.2km、南北2kmに渡り大きくえぐられるように崩壊し、その時に生じた泥流により麓の集落が埋まって461人が犠牲になりました。泥流はさらに川をせき止め、桧原湖など3つの湖が出現しました。この噴火については関谷清景らにより詳しい調査が行われ、日本の火山噴火研究の先駆けとなっています。
この写真はその調査のときにとられたものです。ガラスでできたスライド(幻灯)になっていて、おそらく、東京で行われた磐梯山噴火についての一般向け講演会のときに関谷が使ったものと思われます。なお、撮影者の中にはウィリアム=バートンがいます。