アルバート・アインシュタイン博士(左)と湯川博士(右)。
 湯川博士の中間子理論は「素粒子の相互作用について」と題され、英文でも『日本数学物理学会記事』に収録されていました。素粒子物理学研究の中心地である欧米の研究者たちは、「日本にユカワのような人物がいたとは驚きだ」と衝撃を受けました。湯川博士と高校・大学で同級で、後にやはりノーベル物理学賞を受賞することになる朝永(ともなが)振一郎博士は、留学先のドイツで湯川博士に向けられた熱い視線を目の当たりにしてたいへんな衝撃を受けたといいます。
  日本国内でも湯川博士の業績が認められるようになり、1940年に京都大学の教授になりました。1943年には文化勲章も与えられました。1947年には、実験によって湯川博士が予言した中間子の存在が明らかになり、湯川博士の理論が正しいことが証明されました。
 1949年、ノーベル物理学賞が湯川博士に授与されるというニュースが世界中をかけめぐりました。そのころの日本は第二次世界大戦後から立ち直れず、暗く悲しい雰囲気が漂っていました。明るいニュースを待ち望んでいたテレビや新聞は「全世界的に最大の名誉」「万歳!」と湯川博士の偉業を賞賛しました。
  湯川博士は受賞の第一報をアメリカで聞きました。コロンビア大学の教授として赴任(ふにん)していたのです。湯川博士は、受賞後のインタビューにこたえて次のように語っています。「人類の利益になる研究を続けていくのは喜びです。しかし日本にはあらゆるものが不足しており、科学研究も劣っています。もっと日本の若い科学者をアメリカに留学させなければなりません。私も研究のための物資を日本に送ることができたら…… 」。
 アメリカ滞在中に、湯川博士はアインシュタイン博士と出会いました。偉大なる理論物理学者のアインシュタイン博士は、日本への原爆投下をくい止めることができなかったことを、涙を流してあやまりました。この後、湯川博士はアインシュタイン博士を慕って、世界平和のための運動に力を入れるようになりました。
  1953年、京都大学は湯川博士を日本に呼び戻しました。その後は母校で後進の指導に専念し、多くの優秀な物理学者を育てました。湯川博士は学生たちにこう言いました。「君たち全員にの成績をあげるけれども、勉強は自分でしなさいよ」。1981年9月8日、湯川博士は世界中に惜しまれながら静かにこの世を去りました。

参考資料
書籍・雑誌

ノーベル賞10人の日本人 読売新聞編集局 編 中央公論新社
ノーベル賞の百年
 ウルフ・ラーション 編 株式会社ユニバーサル・アカデミー・プレス
原子・分子の発明発見物語 板倉聖宣 編 国土社
玉川児童百科大辞典2 物理
 小原國芳 編 玉川大学出版部
チャート式シリーズ新化学IB・II 数研出版