そのころの湯川博士は、枕元にノートを置いておき、寝ながら考えが浮かぶとそれを記録していました。そしてある晩、探し求めていた答えがひらめきました。「陽子と中性子は、何か別の粒子をキャッチボールしているのではないか? しかし原子核はたいへん小さく、キャッチボールの距離もきわめて短い。きわめて短い距離を飛ぶ粒子は、非常に重いはずだ。非常に重いために、粒子はほんの一瞬しか存在できずに発見されないのでは……」。計算してみると、この粒子は電子の200倍ほどの重さをもつことがわかりました。その重さは陽子と電子の中間であることから、「中間子」とよばれるようになりました。  
   
   湯川博士はこの中間子理論を仮説としてまとめ、1934年に東京大学で開かれた日本数学物理学会ではじめて発表しました。しかしその理論はあまりにも大胆で、それまでの物理学の常識をくつがえすものであったために、相手にされませんでした。「湯川博士の声は小さくて、何を言っているのかさっぱりわからなかった。もう一度はじめから発表しなおしてくれませんか」という声があがる始末でした。
  しかし友人の仁科芳雄(にしな よしお)博士は興味を持ち、湯川博士を励ましました。幸運は湯川博士を見捨てませんでした。1937年に湯川博士が予言した粒子と同じような重さの粒子が発見されたのです。その粒子は宇宙からやってくる宇宙線からみつかりました。その後、その粒子は湯川博士が予言したものとは違うことが判明しましたが、中間子理論は世界の脚光を浴びるようになりました。