極小の粒子(素粒子)を検出するための施設、スーパーカミオカンデ。
 



 やがて湯川博士は、京都大学の理学部に進学することになりました。高校生のころから、洋書店に立ち寄ってはドイツ人が書いた『量子論』などを読み、生まれたばかりの「量子力学」に興味をもちました。そこで、湯川博士自身も理論物理学を勉強することにしたのです。大学では海外の文献を読んでは新しい知識を身につけ、勉強に明け暮れる日々を送りました。しかし最新の理論について教えてくれる先生は、日本にはいませんでした。海外で大きな成果が上がるたびに、「私がこのまま理論物理学をやっても、大物にはなれないのではないか」という不安がよぎるのでした。
 自分の行く末に不安を感じながらも、湯川博士は京都大学に副手という肩書きで残ることに決めました。しかし給料は出ませんでした。20代半ばといえば、とっくに給料をかせいで自立している年ごろです。湯川博士は自分だけが出遅れているようで、悲観的な気持ちで研究生活を送っていました。
  1931年、そんな湯川博士に縁談が舞い込みました。相手は大阪にある病院の末娘です。縁談はまとまり、結婚して大阪に移り住むことになりました。京都大学でも給料の出る講師の職を得ることになり、その2年後には大阪大学で講師をつとめることになりました。

 そのころ、物理学の分野には大きな動きがありました。原子核が「陽子」とよばれるプラスの電荷をもった粒子と、「中性子」とよばれる電気的に中性の粒子が集まってできていることがわかったのです。アメリカでは、粒子をたいへんな速さに加速して衝突させることで人工的に破壊し、その内部の構造を調べる実験が行われるようになりました。
 湯川博士は心の中では、原子核の構造に関する「ある疑問」とそれにこたえる理論について考えをまとめ始めていましたが、それをどこかに発表することはしませんでした。妻だけには「私は世界中の物理学者がわからないことにこたえる自信があるよ。日本人だってノーベル賞がもらえるはずだ」と語っていました。そんなある日、物理学教室の教授が湯川博士をどなりつけました。「君は大学を卒業して5年もたっているのに、論文を1本も書いていないじゃないか。こんなことではダメだ。さっさと論文をまとめなさい」。

 教授と妻にせかされて、さすがの湯川博士も重い腰を上げ、論文の執筆に取りかかりました。テーマは「原子核の中で、どうして陽子と中性子がバラバラにならずにいられるのか」というものでした。湯川博士は、原子核の中にプラスの陽子と電荷をもたない中性子だけがあるとすれば、プラスの電気をもつ陽子どうしが反発して粒子がバラバラになってしまうのではないかという疑問をもっていました。原子核にはマイナスの電荷をもつ電子も存在していますが、この電子は原子核のはるか外側を回っています。電子の力では原子核の崩壊(ほうかい)を抑えることなどできるはずがないのです。「陽子と中性子をつなぎとめる何らかのしくみがあるはずだ」。そのしくみを理論によって突き止めようとしたのです。