2000年10月11日神奈川県横浜市青葉区の自宅にて。右後ろは受賞のお祝いに訪れたカール・レイフランド駐日スウェーデン臨時代理大使。

 中学校の卒業文集に白川博士は次のようなことを書いています。「高校を卒業できたら、できることなら大学へ入って、化学や物理の研究をしたい。現在できているプラスチックの欠点を取り除いたり、いろいろ新しいプラスチックを作り出したい。プラスチックの製品としてナイロン靴下や風呂敷などができているが、熱いお弁当を包むと伸びてしまって元に戻らない。熱に非常に弱いからだ。これも一つの欠点だ。これらの欠点をなくして、安くつくれるようになったら、社会の人々にどんなに喜ばれることだろう」。
  夢を抱えた白川博士は、高校卒業後の進路として化学や工学など三つの分野を勉強することを考えていました。そして、大学受験。一度は受験に失敗しましたが、翌年無事合格を果たします。このときに東京工業大学理工学部化学工学科へ合格したことが、白川博士が化学の道に進むことを決定づけました。
 東京工業大学は、少人数の単科大学で、優れた科学者や技術者を育てることを目的にしている大学です。化学工業科に入学した白川博士は山岳部に入って登山を楽しんだりして学生時代をすごしていました。
  4年生になると大学生は研究室に入って、より専門的な勉強をすることになります。白川博士は、物質を合成する研究室に入ることを希望していました。しかし、その研究室に入ることができる人数は6人、希望者はなんと7人でした。
  そこで希望者でじゃんけんを行うことになりました。その結果、ただ一人この研究室に入ることができなかったのが白川博士でした。そこで白川博士は、大学4年の1年間、物質の性質をいろいろ研究する「物性」の研究室へ入ることになりました。この物性の研究室ですごした1年が、その後の白川博士にとってたいへん重要な意味をもつことになりました。
 大学を卒業し、希望通りの東京工業大学の大学院に入った白川博士は、その後大学で助手をつとめるようになりました。
 1976年のある日、白川博士は韓国の一人の研究生を指導していました。ポリアセチレンというプラスチックの作り方を教えていたのです。作り方をメモにして研究生にわたし、実験をしてもらいました。
 「失敗しました」。研究生はほどなくして報告にきました。何やら黒い色の膜が実験器具の中にできています。当時、ポリアセチレンは、合成しても粉のようにしかならないことが知られていました。合成しても粉状になってしまうことから、さまざまな性質、つまり「物性」の測定はむずかしいとされてきました。
  白川博士はこの黒い色をした膜に注目し、なぜこのような物質ができたのかを注意深く検討しました。そして、後に「白川法」とよばれる、ポリアセチレンのフィルムを作る方法を発見しました。白川法で作られるポリアセチレンのフィルムは、金属のような光沢を放っていました。電気を通すプラスチックへとつながる大きな発見でした。
 白川博士はポリアセチレンの電気的な性質にも着目し、測定してみました。フィルムは外見こそピカピカと光沢を放つ金属のようでしたが、金属と同じように電気を通すことはありませんでした。白川博士はポリアセチレンの合成方法を発表しましたが、当時はそれほど話題になりませんでした。研究はこのまま埋もれていくかにみえました。
  しかし、転機が訪れます。それはアラン・マクダイアミッド博士との出会いでした。1975年、東京工業大学に講演に訪れていたマクダイアミッド博士は、金属のように光沢のあるプラスチックを研究している人がいるという話を聞き、ぜひ見たいとということになりました。マクダイアミッド博士の元へ白川博士が持ってきた輝くプラスチックのフィルムを見て、マクダイアミッド博士は飛び上がるほど驚いたといいます。これが一緒にノーベル賞を受賞することになるマクダイアミッド博士との出会いとなりました。