1957年、野依博士は第一希望の京都大学工学部へ進学しました。工学部はみんながあこがれていた花形の学部でした。しかし野依博士はあまり勉強をせずに、大学に入ってから覚えた麻雀や酒にあけくれる日々を送っていました。さらに、自分で作った野球チームのメンバーたちと酔っぱらって商店のショーウィンドーを壊すという大事件をおこしてしまいました。
 しかし3年生になり専門学部に進むと、ようやくエンジンがかかってきました。4年生になり入ったのは有機化学を扱う宍戸圭一(ししど けいいち)教授の研究室でした。有機化学とは炭素を主体として、水素、酸素などから作られた化合物を研究する学問です。生物が作り出す物質の研究から始まり、ナイロンやポリエチレンといった合成化学の研究へと発展してきました。研究室の野崎一(ひとし)助教授は、何も知らない野依博士に、まさに「手取り足取り」といった感じで化学の基礎を教えてくれました。こうして朝から晩まで、研究に明け暮れる日々が始まりました。化学の研究は実験を抜きにはできません。必要な物質の精製や抽出、化学反応の制御、反応物の分析、器具の洗浄、実験結果のレポート……。やらなくてはならないことが次から次から出てきます。しかし、けたはずれの集中力と運動部できたえた体力をもつ野依博士が弱音を吐くことはありませんでした。それどころか、すっかり「化学実験のとりこ」になってしまいました。

 修士課程を終えると同時に、野崎助教授が京都大学の教授になり、野依博士は助手として迎えられることになりました。野依博士は学生への指導が厳しく、研究室に泊まり込んで実験することもめずらしくありませんでした。実験中の溶液が突然爆発するという事故で大けがをしても、包帯だらけの体で研究を続けました。野依博士の「研究に対する執着心と、不屈の精神」は、このころすでに身についていたのです。
 野依博士の研究は「左右が区別できる物質を使って、ある化学反応を調べる」というものでした。左右が区別できる物質とは、左右が非対称で、たがいが鏡に映してみえる像の関係にある物質のことです。例えば、私たちの体を作るタンパク質の材料となるアミノ酸は、すべて左手形であることが知られています。野依博士は、自分で立てたある仮説が正しいかどうかを、左右が区別できる物質を使って確かめようとしました。仮説が合っていればできてくる右手形と左手形の物質の量に差がでてくるはずでした。ちょうど半分ずつできてくれば、その仮説は間違っていることになるのでした。実験結果は、わずか10%ではあるが右手形と左手形に差があるというものでした。
 こうした熱心さが買われ、29歳という若さで名古屋大学理学部の助教授に就任、アメリカのハーバード大学への留学を経て、4年後には教授に昇進することになりました。