田中角栄首相(当時)と談笑する江崎博士。
 江崎博士はPN接合型ダイオードでみられた現象を論文にまとめ、日本の学会で発表しましたが、反響はまったくありませんでした。そこで加筆したものを、アメリカの物理専門誌であるフィジカル・レビューに投稿しました。論文は採用されました。さらに、トランジスタの産みの親であるショックリー博士がブリュッセルの国際会議で江崎博士の研究を賞賛しました。
 江崎博士の開発した不純物を練り込んだPN接合型ダイオードは「エサキダイオード」とよばれるようになりました。エサキダイオードはきわめて短時間でのスイッチのきりかえが可能なために、コンピュータの処理スピードを高速にするために応用できると期待されました(実際には別の方法が主流になってしまいました)。
 しかし江崎博士は、自分に注がれる視線が熱くなっていくに従って疲れを感じるようになりました。「自由なアメリカで好きなように研究がしたい」。1960年、35歳の江崎博士はアメリカのIBMワトソン研究所に転職先を決め、日本を去っていきました。
 アメリカに渡った江崎博士は、ごく薄い半導体膜と絶縁体を交互に重ねた「超格子」とよばれる素子について研究しました。その研究が実を結ぼうとしていた1973年、「江崎博士、ノーベル物理学賞受賞」の知らせが入りました。日本では、江崎博士の受賞を喜ぶとともに、「残念な頭脳流出」と報道されました。受賞後、江崎博士は多くの若手研究者をIBMの自分の元に呼び寄せました。有能な若手研究者に自由に研究を行わせる一方で、成果が上がらないと叱りつけることもしばしばでした。研究に対するひたむきな情熱を身をもって示したかったのです。
 1992年、日本政府は流出していた江崎博士の頭脳を取り戻すことに成功しました。筑波大学の学長選挙に出馬することを、江崎博士が承諾したのです。江崎博士はみごとに当選を果たし、32年ぶりに日本に帰国することになりました。「閉鎖的な日本の教育を変えなければ、個性豊かな研究者は育たない」と強く感じたからでした。以来、江崎博士は教育人としての顔をもち続けています。博士は言います。「学術的な能力だけが重要なのではありません。感性や個性もたいへん重要です。子どもたち一人一人の天性を引き出すためには、それに応じたきめ細かい教育システムが必要です。日本の教育はまだまだ満足のいくものではありません」。
参考資料
書籍・雑誌

ノーベル賞10人の日本人 読売新聞編集局 編  中央公論新社
ノーベル賞の百年 ウルフ・ラーション 編 株式会社ユニバーサル・アカデミー・プレス
身近な物理の世界 福井崇時 著 講談社サイエンティフィク
玉川児童百科大辞典2 物理 小原國芳 編 玉川大学出版部

ウェブ
ソニー・ヒストリー
http://www.sony.co.jp/Fun/SH/1-11/h1.html
NASDA
http://spaceboy.nasda.go.jp/note/kagaku/j/kag106_tonneru.html
増田寛也のビックトーク
http://www.pref.iwata.jp/info/ipangu/ipangu16/
大阪市立科学館
http://www.sci-museum.kita.osaka.jp/publish/text/k_hokoku/hokoku10-091.html