2008-07-25

皇居のタヌキ その生態 (協力:動物研究部 川田伸一郎)


かつてはすぐ傍に−伝承の中のタヌキたち

 ここでは一旦皇居のタヌキたちから離れ,関東地方に伝わるタヌキの伝説,民話をご紹介しましょう。


 先ず江戸時代の随筆『甲子夜話』に登場する『茂林寺の釜』。
 室町のころ,今の群馬県の茂林寺という寺に守鶴という名の和尚さんがいました。守鶴はいくら汲んでも決してお湯がなくならないという茶釜を持っており,しかもそのお湯は飲む人の好みに合わせて,熱くなったり温くなったりするという不思議なものでした。
 ところがある時,守鶴が昼寝をしている時,守鶴のお尻から大きな尻尾がはみ出しているのをお寺仲間が見てしまいます。実は守鶴はタヌキの化身であり,茶釜の不思議もタヌキの術によるものでした。正体を知られた守鶴は茶釜と共に寺を出て行きました(茶釜を置いて行った,とするものもあり,この場合残された茶釜からやがて耳が生え尻尾が生え,これも守鶴が化けていたものだったとされています)。
 この物語から派生したものに,同じく群馬県の昔話『分福茶釜』があります。


 人間の行動が原因であったらしいものがタヌキによるものとして言い伝えられたのが,千葉県木更津市に伝わる『證誠寺のタヌキ囃子』です。
 證誠寺は江戸時代の初期につくられた浄土真宗の寺ですが,創建当初寺の周りは鈴森と呼ばれる昼なお暗い竹藪になっていました。
 ある夜のこと,この證誠寺の和尚さんがふと夜中に目を覚ましますと,何か外の方でがやがやと騒ぐ声が聞こえてきます。何だろうと戸に開いた節穴から覗いてみますが何もありません。気のせいかと寝床に戻ると再び声が,今度はだんだん大きくなるようです。耳を澄まして待っていると,その声は何か音楽のようでした。
 再び節穴から覗いてみると,何と大小百匹はいようかというタヌキがそれぞれ自分の腹を叩きながら繰り出して来ました。木の葉でつくった笛を吹くものもいます。そのタヌキたちが声を揃えて,「證誠寺山のペンペコペン,おいらの友達やドンドコドン」とはやし立てながら,やがて本堂の周りを回り出しました。それがあまりにも面白いので,和尚さんは戸板を叩きながら一緒になって歌い騒ぎました。
 次の晩も,また次の晩も,競い合うようにタヌキは腹鼓ではやし,和尚さんは戸板で歌いました。しかし4日目,和尚さんがいくら待っていてもタヌキは現れません。次の朝辺りを探してみると,腹を叩き過ぎたらしいタヌキのリーダーが,お腹の皮が破れて死んでいるのを見つけました。哀れに思った和尚さんははタヌキを葬ってやり,證誠寺では現在もそのタヌキを葬ったというタヌキ塚や,この言い伝えをモチーフにした野口雨情の童謡『證城寺(歌詞では架空の寺として誠の字を城に変えています)のタヌキ囃子』の歌碑を見ることができます。

 證誠寺周辺の寺の多くは真言宗で,木更津の浄土真宗の寺は現在でも證誠寺が唯一の存在です。浄土真宗の法要では現在でも雅楽を用いることがありますが,音楽を用いたこれまでの在来の宗派と異なる賑やかな法要は,村人たちの耳にはさぞかし不思議に聞こえたことでしょう。これが話題となりいつの頃からか,タヌキ囃子の伝説に変わっていったのかも知れません。


 また,直接『タヌキ』という言葉は使われていませんが,小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の怪談『むじな』は,皇居から西へ直線で約2km,同じくタヌキの生息が明らかになっている赤坂御用地のすぐ脇にある外堀通りの紀伊国坂を舞台にとった物語です。
 その書き出しは,『東京は赤坂へと続く道に,紀伊国坂という坂がある。坂の一方には深く広い堀,もう一方には皇居の長く堂々たる塀が続いている(筆者訳,一部略(以下同))』。皇居の塀とは現在の赤坂御用地,堀とは江戸城外堀のひとつ,弁慶堀のことだと読めば,現在も残る実在の港区赤坂・紀伊国坂と重なります。
 街灯や人力車が登場する以前の時代,この界隈は夕暮れ以降暗く,寂しい場所となっていたため,近隣の者たちは紀伊国坂を通るくらいなら遠回りをすることにしていました。ところがある夜ひとりの老商人が,人通りのない紀伊国坂を不運にも通りかかることとなってしまいます。そして商人は坂を徘徊する『むじな』の化けた妖怪『のっぺらぼう』に脅かされることになるのですが,この『むじな』,地方によってアナグマ,タヌキ,またハクビシンをさすこともあると言われています。
 特に東日本でタヌキ,西日本でアナグマを指す傾向が強いとする説もあり,後に赤坂御用地となる皇室の杜に住み着いたタヌキが,当時の人々に目撃され,このような怪談が生まれたのかもしれないと想像すると,現在都心に回帰しつつあるタヌキたちに一層懐かしみが湧いてくるような気がします。


写真:證誠寺とタヌキ塚
協力:木更津市狸囃子保存会