2008-05-01

速報:上野動物園最後のパンダ,リンリン死亡 (協力:動物研究部 川田伸一郎)


上野動物園に暮らしたパンダたち

 日本に初めてジャイアントパンダがやってきたのは1972年。当時の田中角栄首相と中国の周恩来首相との間で「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」(日中共同声明)が調印され,その記念として贈られたオスのカンカンとメスのランランが最初でした。公開初日には徹夜で並んだ人も含めて6万人にも及ぶ見物客が詰めかけ,動物園からの行列は上野駅まで届くほどだったと言われています。

 残念ながらこの2頭の間の2世誕生はなりませんでしたが,次に来日したフェイフェイ,ホアンホアンの間に人工授精で3頭の子どもが生まれています。最初の子,1985年に生まれたチュチュは生後2日で死んでしまいましたが,翌年生まれたメスのトントンと1988年に生まれたオスのユウユウは無事に成長しました。

 1992年,ユウユウとの交換で上野にやって来たのがリンリンでした。1985年に北京動物園で人工授精によって生まれたリンリンは,年の近いトントンとの繁殖を期待されましたが叶わないまま2000年にトントンが死亡。その後2001年から2003年まで,メキシコのチャプルテペック動物園との共同繁殖契約(※1)に基づいてメキシコに3度移送され,先方のメスと繁殖が図られましたがこれも失敗に終わりました。人間に良く慣れておとなしく,人懐っこいとも言われたリンリンでしたが,慣れない場所のせいか餌を食べなかったり,檻内をうろうろと歩き回るなど神経質な様子だったといいます。
 それならば慣れ親しんだ場所で,と,2003年の末,今度はチャプルテペック動物園から上野へメスのシュアンシュアンがやって来ました。2年間の滞在の間にお見合いや人工授精が試みられましたがいずれも失敗,ジャイアントパンダの繁殖の難しさ(詳細後述)が,改めて浮き彫りとなりました。
 2005年の9月にシュアンシュアンがメキシコに帰国,以来リンリンは1頭だけで飼育されてきました。リンリンの死により36年間続いてきた「上野のパンダ」の歴史は途切れたことになります。

※1 現在世界各地で飼育されているジャイアントパンダは,ほとんどが中国国籍の個体です。かつて中国は友好・親善などの目的で各国にジャイアントパンダを譲渡していましたが,現在では種の保護のため,有償の貸し出しに変更されています。賃借料は非常に高価で,1年間で1億円とも言われています。また仮に繁殖に成功しても,生まれた場所やつがいの相手となったパンダの国籍に関わらず,生まれた子どもは全て中国籍となります。
 1度譲渡された個体やその子どもたちは譲り受けた国の国籍になるため,ランラン・カンカン以降の上野の個体は全て日本国籍でした。この他に中国以外の国籍のパンダはチャプルテペック動物園のメスとドイツにいるオスだけで,日本国籍の新たなパンダの入手にはリンリンとメキシコのメスたちとの間の繁殖が唯一の方法でした。
 共同繁殖計画は2001年から2005年の5年間で,リンリンがメキシコにいる間に生まれていれば奇数番目の子どもが,シュアンシュアンが日本にいる間に生まれていれば偶数版目の子どもが日本国籍になる筈でした。

参考:東京ズーネットメールマガジン『Zoo Express』