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日本海藻学発祥の地 鎌倉

 鎌倉(江ノ島を含む*1)は、日本海藻学の歴史にとって記念碑的な場所である。日本海藻学の黎明期、数人の植物学者がここを訪れて重要な採集を行っている。


明治10年(1877年)、東京大学の植物学教室初代教授であった矢田部良吉(1851—1899)が、米国から帰国後初めての採集を江ノ島で行った。おそらくこれが鎌倉で最初に行われた海藻採集である。しかしながら、矢田部のその後の研究対象は陸上植物が中心であったため、残念ながら彼自身が海藻について研究を行うことはなかった。そして、明治32年(1899年)、鎌倉の海で遊泳中の事故により47歳の若さで急死する。

 「日本海藻学の祖」として知られる岡村金太郎(1867—1935)が、矢田部のもとで海藻の研究を始めたのは、明治22年(1889年)のことである。卒業後、岡村は水産講習所(1906〜1931年)などで海藻の研究や教育を続けて、68歳の生涯のあいだに約千種の日本産海藻を明らかにした(Chihara 1996)。とりわけ相模湾では大量の海藻を採集し、多数の新分類群を発表した。たとえば、ムチモ Cutleria cylindrica Okamura(=Mutimo cylindricus)、ヤハズグサ Halyseris latiuscula Okamura(=Dictyopteris latiuscula)、ヒビロウド Dudresnaya japonica Okamura、ヒラクサ Gelidium subcostatum Okamura in Schmitz(=Ptilophora subcostata)などであり、さらには、岡村の高弟であった山田幸男(1900—1975)も、新種オオバノコギリモクSargassum giganteifoliumを七里ヶ浜産の標本に基づいて報告している。

 明治時代、岡村のほかにも重要な海藻採集を行った人物がいた。矢田部の助手であった大久保三郎(1857—1914)と、矢田部の植物学科最初の学生であった齋田功太郎(1860—1923)が、明治27年(1894年)に相模湾に面した江ノ島(5月20、25日)、葉山(5月26日)、三崎(5月27日)などで海藻を採集した。そのときの標本は、英国の植物学者E. M. Holmes(1843—1930) に送られて、1896年に英国の雑誌で23種の新種が発表された。たとえば、カタシオグサ Cladophora ohkuboana Okamura、ナガミル Codium cylindricum Holmes、シワヤハズ Dictyopteris undulata Holmes、サナダグサ Glossophora coriacea Holmes(=Dictyota coreacea)、ウミウチワ Padina arborescens Holmes、コトジツノマタ Chondrus elatus Holmes、オオムカデノリ Grateloupia acuminata Holmes、タンバノリ Grateloupia elliptica Holmesなどである。

七里ヶ浜に立つ岡村金太郎(1930年3月に岡田喜一博士が撮影)

脚注*1)江ノ島は昭和22年(1947年)まで、鎌倉郡に属していた。

【海藻コラム】
フットボウリア・マキノイ
或る日、水産講習所所長の岡村に一通の手紙が届いた。差出人は「相州海藻研究所」とあり、「はて面妖な」と岡村が封を切ってみると、文面には、「研究員一同で葉山の海岸を採集していると、見慣れぬ海藻を発見したので、全員額を集めて研究したが、ついに名前が分からず、おそらく本邦では新しい科に属する藻類と考えた。これから送付するのでご研究のうえ名称を教えて欲しい」という意味のことが書かれていた。
やがて届いた小包に入っていたものは、赤褐色で扁平・円形のゴム質の体に細い管状の柄がついたもので、本邦はもちろん世界のどの海藻にも知られていない、じつはただのフットボールの中ゴムだったので、岡村、これを「フットボウリア・マキノイ」と命名し回答した。
発見した「研究員一同」のなかに牧野富太郎がいたことを知っての命名であったそうだ。


(本田正次・久内清孝:「植物採集と標本製作法」綜合科學出版協會.東京.163 pp.(1931)
からの抜粋・要約)