どうしようか考えあぐねていた利根川博士は、しかたなく在籍していた生化学教室の先輩から、アメリカで「分子生物学」というまったく新しい学問がさかんに行われていることを聞きました。分子生物学とは、生物や生命のしくみを分子という小さいレベルでとらえ、これまでの物理学や化学の手法を用いて解明しようというものです。先輩は、ジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックがDNAは二重らせん構造をしていることを突き止めたことなどを話してくれました。「これはおもしろそうだ。私は分子生物学の研究者になろう」。今まで失っていた情熱が、心の奥底からよみがえってきました。この瞬間、利根川博士のノーベル賞への旅が始まりました。
 大学を卒業後、利根川博士は京都大学ウイルス研究所に、大学院生として進学しました。そこで利根川博士は、研究所を率いていた渡辺格(いたる)教授から夢のようなチャンスを手に入れることになりました。渡辺教授が「もし本気で分子生物学を勉強したいのなら、アメリカへ行きなさい。日本にいてはだめだ。留学の世話は私がしよう」と申し出てくれたのです。
留学先はカリフォルニア大学サンディエゴ校に新しくできた生物学部に決まりました。利根川博士はこのときの心境を「おどり出したいほどうれしかった」と語っています。
 カリフォルニア大学サンディエゴ校では、大腸菌に寄生するウイルスがどのようにして増えていくのかを研究していました。利根川博士の研究スタイルはとても変わっていましたが、たいへん精密な実験を行いました。そして、相手が指導者の教授でも真っ向から対決し、自分の考えを変えることをしませんでした。「トネガワはほかの日本人とは違う」。外国人研究者の間でもそう思われるようになっていきました。
  バクテリオファージというウイルスの研究で博士の学位を取った利根川博士は、ソーク研究所に採用され、レナート・ダルベッコ博士(1975年 ノーベル生理学・医学賞)の研究室に所属することになりました。ソーク研究所は、ポリオ(小児マヒ)のワクチンを開発したジョナス・ソークが設立した基礎医学研究所です。利根川博士はそこで、がんの原因となるウイルスを使って、遺伝子がどのように調節されて使われているのかを研究しました。
 しかし、滞在許可証であるビザの期限が切れて、アメリカを離れなければならない日がやってきました。日本に帰るべきか、しばらくカナダ行くべきか、いい仕事場はどこにもみつかりませんでした。ちょうどそのときヨーロッパを旅行していたダルベッコ博士から手紙が届きました。そこには「スイスのバーゼル免疫学研究所に行ってはどうか」と書いてありました。「あんなところで分子生物学ができるのか」と心配する声をよそに、利根川博士はバーゼルに旅立ちました。「なんとかなるだろう」本人はいたって楽観的でした。
 バーゼル免疫学研究所で利根川博士が取り組んだのは、「私たちの体がどのようにしていろいろな種類の病原体から身を守っているか」という問題でした。私たちの体は、病気を引き起こすウイルスや細菌などが体内に侵入しても、ほとんどの場合で死なずに回復できる免疫のしくみをそなえています。中でも「抗体」とよばれるタンパク質は、ウイルスや細菌などの侵入者をめがけて攻撃する強力な武器です。抗体の種類は、侵入者の種類ごとに一つ一つ違っていて、その数は100億種以上にもなると考えられています。
  利根川博士は、こんなに多くの種類の抗体がどのようなしくみで作られるのかを、遺伝子のレベルで研究することにしました。遺伝子はA(アデニン)、G(グアニン)、C(シトシン)、T(チミン)という4つの暗号を用いて作られる体の設計図です。抗体も何らかの遺伝子の設計図に従って作られているはずです。ヒトの遺伝子はすべてを合わせて3万個ほどである(当時は10万個と考えられていた)と考えられています。3万個の遺伝子から、いったいどうやって100億種もの抗体が作られているのか、利根川博士の挑戦が始まりました。