「不思議な物理学の世界を研究しよう」。朝永博士は夢を抱いて、1926年京都大学理学部に入学します。しかし、京都大学には、量子力学を教えることのできる先生がだれもいませんでした。量子力学の教科書すらなかったのです。それでも2、3人の先輩や、同級生で後にノーベル賞を受賞した湯川秀樹(ひでき)博士とともに、協力し合って量子力学を学んでいきました。
  このころも朝永博士は相変わらず体が弱く、卒業のために受けなければいけない試験の多くが3年生になっても残っていました。さらに独学で進めるしかなかった量子力学をテーマにした卒業論文も書かなければなりませんでした。そのため卒業時に就職先も決まっておらず、無給で大学の副手として働く道しかありませんでした。朝永博士は、「健康に自信がもてない自分が、研究をまともに続けることができるのだろうか」と不安を抱えながら、副手として3年間を過ごしました。
 ある時、副手としての研究生活が一転する出来事が起こりました。それは、仁科芳雄(にしな よしお)博士が、1931年5月から1か月間京都大学で行った量子力学の講義でした。
  仁科博士は量子力学の創始者であるニールス・ボーア博士(1922年ノーベル物理学賞)の下で量子力学の研究をしていた、優秀な物理学者です。物理学の公式に名前がついているほどの研究をした人で、すでに世界にその名が知られていました。この仁科先生との出会いが、朝永博士の運命を決めました。
 朝永博士にとって、仁科博士はまさに雲の上の人のような存在でした。ある日、講義が終わった後の質疑応答の時間、朝永博士は勇気をふりしぼっておそるおそる仁科博士に質問します。すると、朝永博士が思っていた「とても手の届かない雲の上の人」といった感じはなく、気さくで質問にも丁寧に答えてくれる温厚な博士でした。それがきっかけとなり、朝永博士は仁科博士に心を開き、自分の進路や研究についての悩みなどを打ち明けるようになりました。
  たちまち1か月の講義期間は終わり、仁科博士は東京へと戻っていきました。しかし、程なくして仁科博士から連絡があり、「今度、東京の理化学研究所に新しい研究室をつくる計画がある。そこで一緒に研究しないか?」という誘いを受けたのです。 それは、朝永博士にとって思ってもみない、うれしい申し出でした。
 1932年、朝永博士は東京にある、理化学研究所(理研)に入所しました。この理研は、大学では考えられない、とても自由な雰囲気をもった研究所でした。先生がだれであろうと、まったく遠慮がなく研究についての討論が進んでいきます。年功序列でかた苦しい大学の研究室にいた朝永博士には、とても信じられないのびのびとした環境でした。最初こそ驚いた朝永博士でしたが、しだいに頭角をあらわしました。討論が行き詰まると朝永博士の意見が求められ、その明快な説明にみなが納得するということがしばしばありました。こうして仁科研究室の理論担当としての地位を築いていきました。
  このころの仁科研究室は、「よく学び、よく遊ぶ」ことをモットーに、研究をきちんと進めるかたわらで息抜きも上手に行いました。筆頭の仁科博士は毎日テニスにはげんでいましたし、夕方には研究の疲れを癒(いや)すためと称して、みんなでビールを飲みに頻繁(ひんぱん)に銀座までくりだしました。朝永博士も理研の仲間とともに寄席(よせ)や演劇、音楽などを楽しみました。なかでも、日曜日に行われたハイキングは、朝永博士の体を鍛(きた)えることに役立ちました。朝永博士はこのときの理研での研究生活を「科学者の自由な楽園」と表現しています。
 1937年、朝永博士は仁科先生の勧めでドイツに留学しました。しかし、わずか2年足らずでヨーロッパで戦争がはじまり、帰国することになりました。
  帰国後、朝永博士は東京文理科大学(現 筑波大学)の教授になります。そして1941年、太平洋戦争がはじまりました。食糧をはじめとするさまざまな物資が減っていきました。外国からの情報も届かなくなり、不自由な生活を強いられました。しかし、朝永博士は戦争中も紙と鉛筆があればできた理論物理の研究を、着実に進めていきました。