朝永博士は1906年、東京で生まれました。4人兄弟の2番目で姉と弟、妹がいました。哲学者だった父親の朝永三十郎(さんじゅうろう)が京都大学の教授となったため博士は一家で京都に移り住むことになりました。朝永博士は小さいときから体が弱く、病気がちで両親をとても心配させました。学校も休みがちでした。朝永博士自身、子供のころを振り返り「気が弱く泣き虫でよくメソメソと泣いていた」と語っています。
 小学校3年生のとき、朝永博士は雨戸の節穴(ふしあな)から差し込む光によって、庭の景色が逆さになって障子(しょうじ)に映し出されていることを発見します。このしくみにとても興味をもった朝永博士は、机の引き出しにあった節穴のあいた板をはがして、机の下に立ててみました。それから、紙のスクリーンをつくって同じことがおこるかどうか試してみたのです。すると、スクリーンにはみごとに外の景色が映し出されました。自分だけの小さなシアターで寝転びながら、外の景色を楽しむことができるようになりました。
  あるとき、外で虫眼鏡を拾った朝永博士は、いいことを思いつきます。「そうだ、この虫眼鏡を秘密のシアターの節穴に差し込んでみよう。スクリーンにもっと大きく外のものが映し出されるかもしれないぞ」。早速試してみましたが、スクリーンに映し出された景色は、予想に反して小さくなっていました。でも、驚いたことに、今までよりもずっと鮮明に映っていました。「これはたいへんな発見をした」朝永博士はそう思いました。
  実は、虫眼鏡は凸レンズなので「光をより多く集める」という性質をもちます。そのため、板の節穴だけのときよりも光がうまく集まり、鮮明に景色が映し出されていたのです。
 中学校では理科の授業のときに、酸素の中で針金を燃やす実験をみて「線香花火のようだ。きれいだなぁ」と感動したこともありました。また水素の実験で、たくさんの風船に水素をつめて空に飛ばしたときの思い出は、いつまでも朝永博士の心に焼きつきました。
  こうして実験に興味をもつようになった朝永博士は、学校で教わるのではなく、自分で考えて実験するようになりました。本で見た電気仕掛けのベルを作ってみたり、電信機を作ったりしました。
  こんなエピソードもあります。朝永博士がもっていた子供用の顕微鏡(けんびきょう)は、倍率が約20倍しかありませんでした。「なんとかして、小さな生き物をもっとよく見たい」。博士は学校でガラス管の切れ端をもらい、それを溶かして自分でレンズをつくりました。こうしてできた自作のレンズは、なんと200〜300倍の倍率をもちました。
 「自分なりにいろいろ工夫して、それが思い通りになる」、この喜びは何にもかえがたいものでした。こうして朝永博士は理科が大好きな少年へと育っていったのです。
 中学時代には、忘れられない大きな出来事がほかにもありました。相対性理論を考えだした、あのアインシュタイン博士が日本にやってきたのです。日本中は大騒ぎで、朝永博士もアインシュタイン博士の研究に関心をもちました。
  時間と空間の相対性、4次元世界……。物理学の世界はとても神秘的に思えました。朝永博士はすっかり物理学の世界に魅(み)せられてしまいました。「物理学はなんて不思議な世界なんだろう。こういう世界を研究する学問はどんなにすばらしいだろう」。
  旧制の第三高等学校に入り、物理を勉強するクラスに進んだ朝永博士は、京都大学を卒業したばかりの物理の先生に出会います。この先生はそのころまだ新しかった量子力学にも関心があり、朝永博士は量子力学についていろいろな話を聞くことができました。量子力学は、これ以上分割できないようなミクロな粒子の世界を支配する法則を示した理論です。ミクロな粒子には顔がない、ミクロな粒子は壁を通り抜けることができる……。量子力学はこれまで以上に不思議な世界でした。また、先生の話しぶりから「いま日本の大学でやっている物理など、もう古臭くてだめだ」ということをなんとなく感じ取りました。