白川英樹博士は、1936年に東京で生まれました。その後、軍医だった父親の仕事の関係で台湾や満州へ渡り、1944年の小学校3年生のときに母親の実家のあった岐阜県高山で暮らすことになりました。高山の豊かな自然環境の中ですごした小学校から高校までの経験は、白川博士にとっての研究の原点となりました。
  5人兄弟の真ん中として育った白川博士は、幼稚園から大学まで学校で1番だったこともなく、秀才だといわれたこともありません。自然の中で遊び回るのが大好きで、チョウを採ったり、川で泳いだりして野山を駆けずり回って遊んでいました。そういう生活の中から、「ちょっとした発見を楽しむ」。そんな少年でした。
 図鑑で見た植物を必死になって探し回ったり、家のお手伝いをしているうちに、ふとした瞬間に小さな発見に出会いました。自然の中で、「どうして雲が浮いているのだろう?」「この植物はなぜここにしかないのだろう?」そのときはすぐにわからなくても、あとから自然の中にかくされた法則を自分なりにみつけ、ハッとする瞬間が白川博士にとって楽しいのです。
  たとえば、白川博士は子供のころ、「モンセンゴケ」という虫を食べる植物が高山にもあることを図鑑で知り、夢中になって探し回ったといいます。どこに生えているかを最初に見つけ出すのは、たいへん苦労しました。しかし、異なる場所で二度、三度とモウセンゴケを見つけるうちに、モウセンゴケを見つけるコツがわかってきました。「じめじめとした日当たりの悪い場所だ」。モウセンゴケがうまく生きていける場所の条件を体で感じ、似たような場所を探すことで、前よりもかんたんにモウゼンゴケを見つけられるようになったのです。
 白川博士の日課は、ご飯をたくときや、お風呂をわかすために火をおこすことでした。白川博士の子供時代は今ほど便利ではありません。ご飯を作ったり、お風呂のお湯をわかしたりするためには、木を燃やして火をおこす必要がありました。白川博士はこうした家庭の仕事を毎日しているうちに、ちょっとした楽しみをみつけ出しました。新聞紙に少し食塩水をふりかけて、火にくべてみるのです。するとそれまでオレンジ色だった炎の色が黄色く変化しました。
  これは塩に含まれる「ナトリウム」という物質が燃えることでできる色でした。物質の中にはナトリウムのように、炎の中に入れると「ある決まった色」をだすものがあります。これは化学物質の分析にも使われる反応で「炎色反応」とよばれます。スープがふきこぼれたときに炎が黄色くなるのも、夜空をかざる花火も、この炎色反応によるものです。こうして、あらゆる身近な現象が、理科への興味につながっていきました。