小柴昌俊博士は1926年愛知県に生まれました。小学生の時に神奈川県横須賀市に引っ越し、旧制横須賀中学(現県立横須賀高校)に入学。陸軍幼年学校を受験しようと準備を進めていました。「将来は音楽家か軍人になろう」。ところが陸軍幼年学校受験の一か月前に、不運にも小児まひにかかってしまいました。小児まひはポリオウイルスという病原体に感染することで発病し、手足に運動まひが残る病気です。現在では良いワクチンがありますが、当時は散発的に流行していました。小柴博士は後遺症により、音楽家の道も軍人の道もあきらめざるを得ませんでした。
 病床にあった小柴博士を物理学と出会わせたのは、当時担任だった金子英夫先生(故人)でした。金子先生はアインシュタインらが書き記した『物理学はいかに創られたか』という本を小柴博士に贈りました。病気が回復すると旧制一高(現東京大学教養学部)に進学しました。小柴博士は、勉学に励む一方で、家庭教師や米軍の荷揚げ作業の帳簿(ちょうぼ)付けなどのアルバイトをして家計を助けていました。物理学を専門にしようと思ったのは、物理学教授の話し声を思いがけず聞いてしまったからでした。教授は寮の割れたガラスの向こうで次のように話していました。「小柴は物理のできが悪い。物理学へ進むことはありえんだろう」。
 教授の言葉を聞いて頭にきた小柴教授は猛勉強を始めました。家庭教師を買って出たのは寮で同室だった親友の朽津耕三(くちつ・こうぞう)現東大名誉教授。努力の甲斐あって、小柴博士は東京大学理学部物理学科へ入学することができました。
 苦労して進学した物理学科でしたが、成績はお世辞にも良いとはいえませんでした。しかし「物理学実験第一」と「物理学実験第二」は「優」をとりました。物理の実験がいかに好きだったかが伺えます。在学中、旧制一高時代の校長に、後にノーベル物理学賞を受賞することになる朝永振一郎博士を紹介してもらい、アメリカロチェスター大学に留学するための推薦状を取り付けました。「成績は良くないが、バカじゃない」。小柴博士が自分で書いた推薦文に朝永博士は苦笑しながらサインしました。こうしてアメリカ行きを手に入れ、東大理学部を卒業し、アメリカのロチェスター大学大学院へ留学しました。