1981年。ノーベル化学賞の知らせを受けて (京都市左京区の自宅にて)。


 高校時代、福井博士は化学があまり好きではありませんでした。暗記科目のように感じた化学よりも、数学や物理に興味がありました。「さて、大学では何を勉強しようか」。そこで福井博士の父親が京都大学工学部応用化学科で教授をしていた、遠い親戚の喜多源逸先生に相談しました。
 すると、喜多先生は「数学が好きなら、化学だ。私のところへ来させなさい」というのです。当時は、数学の嫌いな人が化学にいくというのが常識でした。しかし、喜多先生の言葉から何かを直感的に感じた福井博士は、先生のアドバイスどおり京都大学工学部へ入学します。

 大学入学後の福井博士は、喜多先生に「基礎をやりなさい」とすすめられました。もともと化学があまり好きではなかった福井博士は、大学に入ってからも化学の勉強はあまりしませんでした。喜多先生の言葉を勝手に「化学の基礎とは数学や物理である」と解釈して、これら2教科の勉強に励(はげ)みました。理学部の講義を受けたり、物理学科の図書館を利用したりして勉強を続けました。
 福井博士は気に入った本を見つけると、徹底的に読み込みます。本に書かれた数式は、「一から自分で計算し、次の式を導くことができてはじめて理解した」という信念のもとに、勉強を進めていきました。こうして博士は、ふつう化学を専門にしている人が勉強しないような「量子力学」といった、最先端の物理学などを習得していきました。
 福井博士は、大学卒業後、京都大学大学院に進みました。ちょうど太平洋戦争が始まった1941年のことでした。福井博士は、大学に籍をおいたまま「短期現役将校」として陸軍の燃料研究所へ配属されます。ここで博士は、飛行機を飛ばすための燃料を改良する仕事を命じられました。博士は、炭素と水素の化合物である「炭化水素」の骨格を改良し、異常燃焼をよりおこしにくい、効率のよい航空燃料をつくりだす方法を、みごとに開発しました。
 化学反応は多くの元素からなる化合物が組み合わさって、おこります。そのころ、電子のプラスとマイナスが電気的に引き合うことによって、化学反応がおきるという「有機電子説(電子説)」が発表されました。この説によって化合物の性質や、反応が説明できることがわかってきました。それどころか、すべての化学反応を説明できるかもしれないと期待されていました。
  ところが、福井博士が燃料研究所で取り組んだ炭化水素は、電荷にプラスやマイナスの分布がなく、みな一様な物質でした。電子説では説明がつきません。福井博士は燃料を開発するときにこの点で苦労しました。博士は「電子説は完全じゃない。この有機電子説や炭化水素の反応を全部まとめて成り立たせる法則がないものだろうか」と考えるようになりました。
 福井博士は寝る前には、枕元に紙と鉛筆を用意していました。研究についてのアイデアが思いついたときには、どんなときでもすぐにメモがとれるようにするためです。
  ある日、寝ていた福井夫人は「これを見て!」と博士に揺り起こされました。夫人が眠い目をこすって博士が差し出したわら半紙をみると、数式のようなものがびっしりと記されています。「どうだ、きれいだろう」。福井博士は、何度も何度も同意を求めました。このときのメモには、実は重要な発見が記されていたのです。